静止状態 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~
快晴の空見上げればわれを越え天わたる鷹の時を呼ぶ声


 この間の日曜日は,友人というか,僕が前にやっていた仕事の後継者の結婚式があり,招待を受けたのだが,個人的事情により出席はお断りした。その埋め合わせとして,花と祝電を送った。祝電には祝福の気持ちとして短歌をしたためた。

 出席を断った理由は,愛知県と神奈川県という距離の問題や仕事の都合ではない。友情や愛情は距離や時間やビジネスを超越するはずである。そんな瑣末な理由ではない。それは,現在極度の食事制限があるため,披露宴のテーブルでほとんど何も口にできないということであった。同席の人たちは妙に思うであろうし,いちいち事情を説明する場でもない。周りに自分の理解者がいれば,まだよいのだが,そういう人もいない中で出席するのは,自分が傷つくだけにとどまらず,周りの雰囲気を悪くすること間違いない。そういう理由で出席を取り止めた。そのことは友人にも理解してもらい,快く承諾してくれた。このようにして結婚式への出席をキャンセルしたのは何度目だろうか。確か3回目・・・

 他人から見れば些細な理由と思われるかもしれない。が,僕にとっては,これ以上に辛い思いはない。周りの視線であったり所在なさであったり,逆に過度な気配りや同情も,すべてが自分に敵対的な雰囲気を作り出す。だから,おのずとそういう場への出席や人との付き合いに臆病になる。結果,今では人との交際は,自分のことをわかっている,ほんの一握りの人間に限られている。

 昨日のブログで,ややわかりにくかったと思われる「静止状態」というのは,こういう状況も指す。すなわち,他人との付き合いに消極的となり,外で活動的に動くことが少なくなる状態。まだ若く調子のよい頃は,毎日のように渋谷や新宿の劇場に足を運び,調布や相模原の行きつけの飲み屋にはよく飲みに行き,多くの人間たちと関わり合った。また,学問を志す学徒として勉強も読書も飢えるようによくやった。そういう風に動的に動き思考しているときは,やはり楽しいし充実感がある。同じ1時間も,今より密度が濃く,中味がギッシリ詰まっている感じがする。だから,その頃の僕は,まさに時間が伸びている,ゆっくり進んでいる感覚を,他人に与えていたに違いないし,今の僕にも与える。今の僕を,過去の僕と比較して相対的に捉えれば,その時間は縮んでおり,速度も速い。単位時間あたりのエネルギー消費量は極めて少ないし,活動範囲も限局されている。これが充実感の喪失,虚無感なのだろうか。昔のような時間を取り戻すにはどうしたらよいのか・・・

 昨日書いた「非人間的」「植物的」という表現は,経管栄養(エレンタール)によって栄養維持をしている生活を形容するために用いた。栄養ポンプによる滴下速度は大体1時間あたり90mlであるが,その滴下を見ていると,時間が無駄に過ぎ去っているようで何だか虚しい。およそ1000mlの栄養剤が,何のドラマ性もなく,ただ時間とともに消えて無くなっていくだけの1日・・・

エレンタール三滴おちて冬となる


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