「みんなちがつて,みんないい」という,金子みすゞの詩の有名な一節を書道家の人に書いてもらって,昨年3月までやっていた塾の玄関すぐの応接間兼事務所にずっと飾っていた。4,5年は飾っていただろうか。一人ひとりを大切に教育するという塾の方針にもピッタリだと思ったし,ちょうど金子みすゞの詩は小学中学・国語の教科書にも掲載されていたこともあり,それ以上のことは深く考えていなかった。が,思慮が浅かった。とんでもない取り違い,というか過ちを犯してしまっていたのだ。
当時は何らのクレームもなく,むしろ塾のイメージ・アップに貢献していたかもしれなかったと,今の今まで自分の中では何の疑いも抱いていなかった。ところが先日,中日新聞・夕刊に載った文芸評論家・尾形明子さんの寄稿文を読んで,はっとした。この詩の意味合いというか,金子みすゞの心情を全く理解しないまま,あの詩句の行書書きを,恥ずかし気もなく掲げていたのだ。尾形さんが言うように,あの「みんなちがつて,みんないい」という句が含まれる詩は,個性の尊重とか人間の平等とかを唱えたものではない。全く違う。普通はペットや玩具の対象として見る小鳥や鈴に対してさえも,みすゞは引け目というかコンプレックスのようなものを感じている。だから,私にも小鳥や鈴に負けないものを持っているんだよ,という懸命の自己主張をするのである。しかし,強く訴えれば訴えるほど,悲しい。そして最後に「みんなちがって,みんないい」という,あきらめにも似た,限りなくネガティブな自己肯定。個性の尊重をテーマとしているとは,デマゴギーにすぎなかった。また,そう思っていた自分も恥ずかしい。あゝ,我が人生を直ちに抹殺せよ!
そのことを皆の眼で確かめていただきたく,例の詩を全文引用させてもらう。
私が両手をひろげても,
お空はちっとも飛べないが,
飛べる小鳥は私のように,
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても,
きれいな音は出ないけど,
あの鳴る鈴は私のように
たくさんの唄は知らないよ。
鈴と,小鳥と,それから私,
みんなちがって,みんないい。
お空はちっとも飛べないが,
飛べる小鳥は私のように,
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても,
きれいな音は出ないけど,
あの鳴る鈴は私のように
たくさんの唄は知らないよ。
鈴と,小鳥と,それから私,
みんなちがって,みんないい。
(「私と小鳥と鈴と」)
金子みすゞは,いわゆる童謡詩人という範疇の中で語られることが多いが,そんな枠には収まりきらない,深い心の闇を抱えた絶望の詩人であった。少女の語る叙情詩として読んでは決していけない。次の詩にそのことははっきりと見て取れる。
この裏まちの
ぬかるみに,
青いお空が
ありました。
とおく,とおく,
うつくしく,うつくしく,
澄んだお空がありました。
この裏まちの
ぬかるみは,
深いお空で
ありました。
ぬかるみに,
青いお空が
ありました。
とおく,とおく,
うつくしく,うつくしく,
澄んだお空がありました。
この裏まちの
ぬかるみは,
深いお空で
ありました。
(「ぬかるみ」)
裏町の汚れたぬかるみに,澄んだ美しく青い空が映っている。だが裏町のぬかるみは,汚い濁った泥水であった。それが実態なのだ。その絶望的状況の中に希望を見る。が,しかし,その希望は実態ではなく,絶望の水の底深くに映った虚像,偶像でしかない。この底なし沼のようなニヒリズムや絶望を理解せずして,金子みすゞの詩を語ったり,掲げたりしてはならないだろう。
だから僕に金子みすゞを語る資格などないが,もう一つだけ彼女の詩を引かせてほしい。遺言のような詩「雪」。
誰も知らない野の果で
青い小鳥が死にました
さむいさむいくれ方に
そのなきがらを埋めよとて
お空は雪を撒きました
ふかくふかく音もなく
人は知らねど人里の
家もおともにたちました
しろいしろい被衣 着て
やがてほのぼのあくる朝
空はみごとに晴れました
あをくあをくうつくしく
小さいきれいなたましひの
神さまのお國へゆくみちを
ひろくひろくあけようと
青い小鳥が死にました
さむいさむいくれ方に
そのなきがらを埋めよとて
お空は雪を撒きました
ふかくふかく音もなく
人は知らねど人里の
家もおともにたちました
しろいしろい
やがてほのぼのあくる朝
空はみごとに晴れました
あをくあをくうつくしく
小さいきれいなたましひの
神さまのお國へゆくみちを
ひろくひろくあけようと
この真空のような魂は一体どこに向かおうとしているのか。――――幼い一人娘を残し、26歳で自ら命を絶った,この詩人の心の空洞を,誰も知ろうとはしない。尾形さんが言うように,金子みすゞは大震災後に,いかにも「やさしさ」や「絆」を象徴する詩人として,いわば日本の救世主のような存在に祀り上げられてしまった。そうだとしたら,みすゞの詩的精神,底深い虚無や悲観は何ら理解されず受け継がれていないことになる。それでいいのか。以前は何ら理解しようとしていなかった僕が言うのもおこがましいが,単なる童謡詩人として括ってしまうには,あまりに巨大で稀有な存在である。その本当の精神と感性を受け継ぐとするなら,みすゞの詩は,違う意味で,震災と原発事故後の哀しみと絶望のどん底に沈む今の日本で,うたうにふさわしいものかもしれない。その底知れないニヒリズムが,放射能汚染によって出口の見えない袋小路に立たされているわれわれ日本人の心を,恐いほど射抜いているように思えるからだ。
金子みすゞを,やさしさや共生の国民的詩人に仕立て上げてしまったAC(公共広告機構)の罪は重い。だが,僕も同じだ。ACと比べれば,比較にならないほどわずかな影響だが,金子みすゞに対する誤ったイメージや認識を,周りに,とりわけ子どもたちに与えていたことの責任は軽くない。
