福島原発の事故は一向に収束する気配が見えない。不安や恐怖が募るばかりだ。今回の震災が,16年前の阪神・淡路大震災と決定的に違うところは,"放射能"という人類の天才が作り出したものに人間が苦しめられているところだ。つまり,いわゆる"人災"の要素が大きい(というか,現在ますます大きくなっている)という点。地震や津波といった天災が起こることは避けられないとしても,人災は人間自身の努力で食い止めることができるはずである。今回の原発事故は,東電をはじめ国・政府など原発関係者の危機管理の甘さや想定不足,怠慢が露呈した格好の人災であると言ってよいが,この人災については,もっと根本的に考えてみる必要がある。すなわち,平和利用とはいえ核・原子力は本当に必要だったのか,という問題だ。
今からおよそ55年前に出された有名なラッセル=アインシュタイン宣言は,もちろん核戦争を回避するために核兵器の廃絶を求めたものであって,その平和的利用,原子力発電の放棄を訴えたものではない。だが,そこで強く述べられていることは,核・原子力の脅威であり,人類への破滅的影響力である。科学技術の目的が当初は軍事利用であろうと,また平和利用であろうと,その担い手や為政者の倫理・価値観や政策転換により,容易に逆転しうる。原子力は最初は,核分裂反応を利用した原爆の製造という軍事目的で利用された。それが第二次世界大戦後,すぐさま平和利用として原子力発電に利用されることになる。その原子力発電所が直ちに核兵器製造工場に変わることだって可能だし,もっと現実的な問題として,どこかの過激派やテロ組織が原子力発電所を占拠して核テロを起こすことだって十分考えられるわけである。このように目的が何であろうと,核の本質は変わらない。すなわち,原子核反応により莫大なエネルギーを生み出すと同時に,放射線および放射性物質を発生させるということである。そして,その放射能が量や種類によって生物に対して恐ろしい影響を与えるということである。
核としての本質に変化がない以上,原子力発電も,ラッセル=アインシュタイン宣言の精神に立脚して捉えられるべきものと,僕は考える。核兵器と原発を一括りにして考えることには異論があるかもしれない。だが,原発は災害・人為的ミス・戦争・テロ等をきっかけに,たやすく人類への脅威に変わりうる。そう考えれば,原発は,災害がなく政情も安定した安全な地域において,万一事故が起こっても生物・環境への悪影響が及ばない限りの,最低限の発電量で行われるべきだ。
日本の原発に否定的な立場をとるのは,日本が地震をはじめ多くの自然災害の被害を受けやすい国であるという理由だけではない。何より,広島・長崎,ビキニ環礁,東海村核施設のそれぞれで
ノーベル賞作家の大江健三郎が地震直後,『ニューヨーカー』に「歴史は繰り返す」という文章を寄稿した。今日の記事の主旨と一致する,その中の言葉を最後に引いておきたい。
To repeat the error by exhibiting, through the construction of nuclear reactors, the same disrespect for human life is the worst possible betrayal of the memory of Hiroshima’s victims.
(原子炉の建設を通して,人間の命に対する同様の軽視を示すことにより過ちを繰り返すことは,ヒロシマの犠牲者の思いに対する最悪の裏切りである。)
One hopes that the accident at the Fukushima facility will allow the Japanese to reconnect with the victims of Hiroshima and Nagasaki, to recognize the danger of nuclear power, and to put an end to the illusion of the efficacy of deterrence that is advocated by nuclear powers.
(一つの望みは、福島原子力発電所での事故をきっかけとして,日本人が再びヒロシマ・ナガサキの犠牲者たちと心を通わせ,原子力の危険性を認識し,そして核保有国によって提唱されている核抑止力という幻想を終わらせることです。)