ためになる言葉
目の前の困ったことというのは、
前段階の魂の波動が起こしたものです。
これを解決するには、あなたの考え方を変えて、
心を豊かにして、魂を向上させないと解決できないのです。
魂を向上させることができなくて、
何代にもわたって「困った」と言い続けている人がいます。
もういい加減、あなたの「困った」も今世限りにしてみては如何でしょうか。
【斉藤一人】
まさに今の自分の状態を指摘してくれている言葉だ。
目の前で起こっている「結果」には、すべて自分が招いてきた「原因」があるものだ。
完全主義
「 完全主義 」
自分の心に迷い、悩んで生きる人の多くが持っているものだ。
「完全主義」、それは裏を返せば、自意識過剰であるということ。
神経質であり、細かいことが気になる。
自分の仕事、服装、持ち物などに対する執着が強い。
他人から何か言われると反発する。
つまり完全主義者の多くが、
自我が強く、自分に対する”こだわり”(執着)が強いのだ。
ただ、この想いが強すぎるが故に、
現実とのギャップを強く感じすぎ、そのギャップを何かに転嫁する。
自分が悪いわけではなく、何かのせいなんだ・・・ と。
また、完全主義者に多いのが、
他人を信頼することができず、ふとした仕事も任せることができない。
他人がこなす仕事では「完璧」ではないと感じる。
また、自分が自分が、という想いが強いため、
結局自分で仕事をこなそうとしてしまう。
仕事をこなせているうちは良いが、抱えすぎると・・・・
パンクしてしまう。
そんな経験を持つ僕は、
どうやったら自分の「完全主義」から抜け出せるか、考えている。
自分勝手さを感じる瞬間
僕は普段、人混みが嫌いだから、
朝のラッシュを避けるため、少し早めに電車に乗る。
ただ、今朝は日頃の疲れが溜まっていたせいか、
起きようと思った時間に起きられず、いつもより遅く家を出た。
そこで待っていたのが、満員電車だ。
そして、今朝のそのふとした出来事で、またもや「自分勝手さ」を
感じる瞬間に出会った。
※( )内は、僕の心境です。
人がたくさん乗った電車がホームに入ってきた。
(うわ~ たくさん乗ってるなぁ・・ 暑そうだなぁ・・)
その電車が到着して、乗っていた人が数人降りた。
先頭に並べていなかった僕は、降りた人数と待っている人数を比較する。
(少ししか降りないなぁ・・ もっと降りてくれよ・・)
先頭に並んでいた人から、満員の電車に乗り込む。
(どんどん乗り込んでくれ・・ 早く乗り込んでくれ・・)
続いて僕も乗り込むが、詰まり気味。
(おい、まだ乗れるだろ・・ 後ろの人を考えて早く乗ってくれ・・)
前の人を押しながらも、ようやく乗れる。
(ふー、これだから朝のラッシュは嫌なんだよな・・)
乗り込んだ自分は安心するも、「時間調整」との理由で、
ドアはすぐには閉まらない。
そして、すぐに発車しない電車のもとには、次から次へと
新たに人が乗り込んでくる。
(おい、ドア早く閉めてくれ・・)
すでにいっぱいの車内に、どんどん乗り込もうとしてくる。
皆、この電車に乗ろうと必死だ。
(おいおい、もう乗れないだろ、次の電車に乗れよ・・)
その瞬間、ハッとした。
電車に乗る前 → ( まだ乗れるじゃないか )
電車に乗ったら → ( もう乗れないだろ )
この心境の変化に気付いた。
満員電車に乗る前には、自分が乗りたいから、まだ乗れるじゃないかと思う。
でも、人は勝手なもので、乗った瞬間に、今度は、乗ってくる人に対して、
もう乗ってくるな、という視線を送ってしまう。
自分が置かれた状況が変わるだけで、
こうも考え方が変わってしまうものなのか・・・
改めて僕の心の悪いクセを認識した。
「自分中心」の考え方がまた出てしまった。
こういう考え方が、結局自分の心を迷わせる原因になっているのだろう。
言い訳は自分を正当化する
ご無沙汰しております。
少なからず更新を楽しみにしていただいた方(?)、
間が空いてしまい、申し訳ございませんでした。
アメブロのサーバメンテナンスがあり、思うように
アクセスできなかったのが言い訳。
でも、この「言い訳」は自分を正当化するためのもの。
アメブロのメンテナンスは数日で終了していたし、
その後アクセスしづらかったのも数日。
2週間近く投稿できない理由は存在しない。
つまり、投稿できなかった自分を正当化するための言い訳として、
アメブロのメンテナンスのせいにする。
ただ単に、ブログを更新するという自分への宿題を自分が
こなせなかっただけだ。
結局、2週間も更新できなかった原因は自分自身の中にある。
サーバが重たくてアクセスしづらかった・・
だから自分が悪いわけじゃない・・・
ふと気付くと、こんなところにも、
自分がかわいいから、自分を中心にした考え方が存在している。
自分を正当化するためだけの言い訳はやめよう。
またブログをきちんと再開して、自分の勉強も進めたいと思う。
人は皆、自分が一番かわいい
前回の自分中心の考え方 でも書いたが、
人は気付かないうちに、自分にとって都合の良い考え方をする。
それは誰もが、「自分ほどかわいい者はいない」という考えを
心の奥底に持っているからだ。
人は道を歩いていて、ころんでしまった時、
ころんだのは、「石」のせいだと考える。
そして、次に「道路」のせいだと考える。
しまいには、自分の「靴」が悪いと、「靴」のせいにする。
つまづいて、ころんだすべての原因は、「自分」にあると言うのに・・。
何か起こったとしても、
自分が悪い、自分に原因がある、とは考えない。
自分ではなく、まず「他」を責める。
これは、世の中には、自分ほどかわいい者はいないため、
自己中心的となり、自分にだけは自然と甘くなることから生まれるものだ。
自分中心の考え方
ここ数日、東京は真夏のように暑い。
6月とは考えられないほど暑い。
じめじめした梅雨を覚悟していただけに、少し拍子抜け(!?)してしまう。
だが、そんな暑い日が続いていると、人は勝手なもので、
「暑い!暑すぎる!!」
と文句を言い出す。
でもきっと、梅雨らしい雨が降り出し、そんな日が続くと、
「雨ってやだよねー」
と言ったりするだろうな。
人ってなんて「自分勝手」で「自分中心」の考え方をするんだろう・・
ふと、そんなことを感じてしまった。
でも、逆を返してみると、
「たかが、天候の変化に自分の感情が左右されている」
そういうことではないだろうか。
そういう意味では、
人間としてはまだまだ未熟だということだろうか。
このように感じる経験、皆さんにもあるのではないでしょうか?
追うと逃げていくもの
「 物事は追うと逃げ出し 放すと寄ってくる 」
何事も求めないと得られない。
これは成功者に共通する考え方のひとつだ。
この世では、人が欲する物は何事であれ与えられる。
だが、多くの人が勘違いをしてしまうのは、
求めている物、欲している物が、
自己満足だけを追求したものであるという点だ。
「自分中心」の想いから生まれた欲、求めた物は、
一旦は得ることができるかもしれないが、それは必ず離れる。
即ち、「自己満足から生まれた物事」は、追うと逃げ出すということだ。
そればかりか、それに執着した想いは、それを捨てない限り、
付いて離れず、逆に迷いと苦しみを生み出し、自分に返ってくる。
では「放すと寄ってくる」とはどういうことだろうか。
自分中心の想いや様々な欲望から離れたとき、
そして、目の前の出来事にひたむきに取り組み、努力しているとき、
その人に必要なものは自然と与えられるということではないだろうか。
うつ状態の父
僕の父は、某大手総合商社に長年勤めていた。
海外駐在も経験した。
傍から見たら、いわゆるエリートコースだ。
帰国後、早期定年制度を利用し、退職。
ベンチャー企業に転職するも、オーナーとぶつかり、解雇された。
以来、今日までの2年間、いわゆる「うつ状態」に入った。
長年のサラリーマン生活で疲れたのだろうか。
不当解雇され、人間不信に陥ったのだろうか。
今、父は仕事もせず、昼間はどこかへ外出し、
夕方戻ってきては部屋にこもる。
家では、自分からはほとんど言葉を発しない。
そして僕は、そんな状態の父に嫌気が差し、心の中で父を責めた。
なんで仕事に就かないんだ。
もっと夫婦で会話して欲しい。
もっと子供と会話して欲しい。
なんで、何もしようとしないんだ。
いつまで、無気力でいるつもりなんだ。
でも最近、父は「病気」なのではないか、と思えるようになってきた。
「うつ状態」を超えた「うつ病」という病の病気。
現代のビジネスマンの多くが、ストレスフルな社会で直面する病気だ。
だとすると、父は「病人」である。
「病人」を責めることはできない。
病人には、優しい気持ちで触れ合っていかなければならない。
まず、周囲にいる人間の「愛」が必要だ。
病人を責めても何の解決にもならない。
この考え方の転換がまずできるかどうかだ。
父を救えるかどうかは、自分にかかっている気がする。
もちろん、救いたいと思っている自分もいる。
これから、父との歩みが始まる。
もちろん、僕から歩みだす。
この世だけではない
人はなぜ悩むのだろうか。
悩みを生む考え方のひとつに、自分という人間が、いま生きているのは
「この世だけ」だと思い込んでいる、ということがある。
人間は「この世」だけでしか存在できないと思うから、欲やエゴを追求
してしまう。これは人間として誰にでもある想いだ。
そして、そんな「自分中心の想い」が、結果として迷いや悩みを生むこと
になり、自分を苦しめている。
しかし、この世の真理を追究していくと、人間には現在生きていると実感
している「この世」以外に、「前世」(過去世)や「来世」(あの世)があると
いう考え方が存在する。
仮に、僕たちが生きているのは「この世だけ」ではない、という考え方が
できると、毎日の過ごし方、考え方も変わってくるのではないだろうか。
「この世」の後には、「あの世」が存在する。
僕たちは「この世」が終わっても、「あの世」で生き続けるのだ。
生かされているということ
ここ数日、「生きる目的」について考えていた。
でも、しっくりと来ない。
「自殺」を考えてから、「人生」について考えるようになったことは勿論、
同時に、この世の「偉大なる力」についても意識するようになってきた。
以前、神様は存在するか でも少し触れた。
船井幸雄さんの言葉をお借りすれば、
神 = サムシング・グレート、
つまり偉大なる存在である。
まだ、「神様」や「偉大なる力」の存在を100%確信しているわけでは
ないが、このことを意識しだしてから、「生きる目的」、という言葉に
しっくりと来ていない。
なぜなら、
ひょっとしたら、僕たちは、自分たちで「生きている」と錯覚している
だけで、実は、この世に存在する偉大な力、神様によって、
「生かされている」のではないだろうか
そう考えずにはいられないからである。
気付いたら、誰もが、自分たちは「生きている」と思い込んでいる。
でも、これは「自分たちの力で生きている」という、一種の自己中心的な
考え方が、存在していないだろうか。
そして、知らず知らずのうちに染み付いている「生きている」という錯覚が
迷いや悩みを生んでいるのではないか、と考えることもできる。
しかし、仮に僕たちが偉大なる存在によって「生かされている」としたら、
日々感じている苦しみは軽減されないだろうか。
僕たちは自分たちの力で生きているのではない。
「生かされている」のだ。
そして、「生きる目的」というものは存在せず、「生かされている」間に、
しなければならないこと、があるような気がする。
それがこの世に生まれてきたことの目的、意味を知ることになりそうだ。
