監督の言葉、そして劇中にも実際登場するのですが、今日観た三本、“聞く事”に特化したドキュメントであったとも言える。対話する事、語り継ぐ事、を執拗に追うカメラは聞き手の表情と、その反応あり気の会話の体温の変化を捉え、こちらに投げ掛けてくる。
『なみのこえ 新地町』『なみのこえ 気仙沼』
確かに語られるのは震災の傷痕である。のに、私が揺さぶられたのはそこでの恐怖でも哀しみでもなかった…
えっ!そんなカメラあり?な、手法が、やがてこちら側すら巻き込む進行形ドキュメント(!?)化する瞬間の混乱。
あの、震災経て結婚した二人の対話。
普通なら編集され削られるであろう、何でもない仕草とか言葉とかに揺さぶられた。
二人の関係性が一瞬にして焼き付くんだよね。
『うたうひと』
こんなんありか!?なドキュメントでございました。
全編追われるのは、老人達が語り継いで来た民話の数々である。
見事なイントネーションと民話とのピッたんこぶり。
聞き入る老人達の豊かな表情。
に、カメラの距離と編集のリズムがやがて呑まれてく…
脱線するけど、シネマ神戸の勝新二本立てでも、特に『悪名』とか何言ってんのか解らんぞ!だったのが、独特のグルーヴ生んでた。
嘗ての私達は何と豊かな耳を備えてたんだろうな。
兎に角、どっからどう斬り込んでも凄い!
凄い以外の表現で語るなら、観逃すな!
しかし、“聞く事”へと拘る濱口監督なれど、今日も資料館寄られてた監督、何よりその“聞かせる”トークが魅力ですな。
そして二日目。
『なみのおと』、『親密さ』
怒涛の二時間越え、そしてそれでも魅惑の四時間越え!
『なみのおと』
やがて“うた”へと至る“こえ”の原点。被災地を、被災者を前に、自らの映画監督としてのアイデンティティを揺さぶられた旅だったのだろうか?
シリーズ次作以降深化する方法論の手さぐり感がまた、生々しく揺さぶりをこちらに掛けてくる。
出来れば順番に!
そんな声が聞きたかった。ってはあったな。
ある姉妹の対話での“私、何でこのタイミングで(思い続けつつも抑えてた事)言っちゃったんだろ?”っての凄く響いた。
『なみのおと』➡『なみのこえ 新地町』『なみのこえ 気仙沼』と、直接的繋がりが強いこの二部作三作品を続けて観る事で、驚く程に『うたうひと』の狙い、そして、そこの水面下での連続性が見えてくる。
作家としての視点、立ち位置、語り口の変化を共に確信以って辿れる。
そして…
『親密さ』
こんなトンデモ作品を前にして何を語れると言うのだ!と憤りたいとこなのに、無茶苦茶観た人達と語り合いたいのだから、何なんすか、これ!
後半まるまる割いた舞台演劇を、創り上げる役者陣を追った前半。と言う魅惑の入れ子構造は、我々観客すら巻き込み…ぬぉぅ!
どっからどこまでが、フィクション?ノンフィクション?と混乱してるとこへ、ポーンと客席(あれは私達でもある)が映り込み一気に現実へと引き戻され…
な、あの混線っぷりに、『なみのおと』~『なみのこえ』~『うたうひと』との連続性を強く感じる。
故に、どちらかをまた観直したくなると。
その線引きの曖昧さに、本日の鑑賞後のティーチインで違和を唱えた方いらっしゃいましたが、ある意味それって狙い通りだったとも言える。
勿論あのお客さんの声もよく解る。
とか、書くと構えて観られそうなんすが、おもろいんです、はい。
笑えます、無茶苦茶。
実は『なみのおと』や『なみのこえ』も結構。
狙った笑いでないとこがまた良い。
後半の舞台とかさ、くすくす笑っぱなしのとことかあったよなぁ~。
あっちの方の妹、最高!
あんなに自然に、いやそれ以上に演じれますか!?
そうそう、たまたま御同席した○町某映画館スタッフのT橋さんと、凄い凄いと言い合ってたら、これまたたまたま遭遇した元○某映画館スタッフのM来姐さん。
に、こら観逃したらあかんでー!と、激プッシュして、困惑させておきました。





