Shimada
Super Channel
Special
本石昌也会長(グリーンツダジム)
後編
Shimada Super Channelの取材協力ジムであり、2015年西日本新人王の三階級に参戦し、三階級総てを制覇したグリーンツダジムの本石昌也会長にこれまでの歩みをお伺いする。2014年4月1日にグリーンツダジムの会長に就任して一年半の歩み。
「運命の4月13日」
小松則幸とのチャレンジ
僕は昭和51年2月22日生まれです。生まれは香川県高松市で三歳から大阪の枚方でズッと暮しています。
中学校の頃から異常なぐらいボクシング大好きで、ボクシングの雑誌読んで、昔の試合でも誰と誰が試合したとか覚えていました。ボクシングマガジンとか。
それからもともとファンだった小松則幸と29歳の時に出会いまして、応援を始めて小松則幸の個人マネージャーにもなりまして、僕がボクシングのトレーナーになったきっかけでもありますね。ボクシングの内部に関わり始めたのは32歳からですね。
僕、ボクシングに関しては、絶対に心がぶれないんですよ。
実は色々な仕事をしてきたんですが、すべて僕「この仕事はアカン」、「やる気が出んわ」とぶれたんです。このボクシングだけはぶれなかった。一生、僕はブレずに生きていくと思う。
いつでも、ボクシングは僕の心にありましたが、僕が子供頃から知っていたグリーンツダジムの会長に、まさか自分がなるとは全く思っていなかった(笑)
でも振り返ると、異常なほどボクシングが好きだった子供からの長い時代はこのためにあったんだと思います。
そのきっかけは小松則幸との出会いだったですね。
もと東洋太平洋フライ級のチャンピオンで、当時、日本チャンピオンだった内藤大助と統一戦をやった人で、内藤選手が勝って、彼は亀田大毅と戦って有名になる訳です。
ま、本当に、小松選手は世界に行くぎりぎりの所にいた選手だと思います。
小松則幸と大阪の香里園の町で出会って、「僕ファンなんです、握手して下さい!」から初めて彼の後援会を作りましてね、マネージャーになり、トレーナーになって、グリーンツダへ来て、2009年5月13日に亀田大毅との試合が決まったんですが、彼はその一カ月前、4月13日に事故でなくなったんです。合宿中に。
滋賀県大津の修行場の滝壺に落ちて亡くなってしまったんです。
僕は毎日泣きましたね。
世界を目指して、朝は枚方で練習し、夜はジムで練習し、後援会回りにチケット売り、本当にもう四年二カ月間、僕らは一心同体だったです。
亀田大毅と試合をして勝てば、再び、内藤との試合が巡ってくるかも知れないという状況の中で、試合の一カ月前に亡くなってしまったんです。
僕も辛すぎてボクシングを辞めようと思っていたんですよ。
でも、彼の告別式の会場にいて、僕は「僕は彼を背負ったんだ」と思いました。
「絶対に僕は小松則幸の存在を背負って、ボクシングの世界で世界チャンピオンを作る!」と決意をしました。
小松則幸と二人で「世界」を目指して生きてきて、確かに小松則幸は亡くなった。
でも僕ら二人のチャレンジはまだ終わってないんですよね。
小松は肉体は失ったけど、小松の夢や魂は僕の中で燃えている。そう思います。
今でも毎日、小松則幸が僕の頭に浮かぶんです。絶対忘れることはないでしょう。
「彼の分も」じゃなくて、いつでも、「彼と一緒に」、世界チャンピオンを作る!
それが僕の人生の最大目標です。
僕はその決意もあるし自信もある。
また一人世界チャンピオンが出来たら、それで終わりというものでもない。すべてをボクシングに注いで生きていく。
その決意が出来たのが、2009年4月13日の件ですね。
それで、僕がグリーンツダの会長になって初めて迎えた試合が2014年4月13日、小松の命日でした。これは何か意味があると思いました。
惨敗はした、落ち込んだし、落ち着いた、今まで見えてなかったものが見えた。
僕が「出来ている」と思ったことは何も出来ていなかった。
島田先生にもボロクソ言われた(笑)
本当のスタートラインが見えた。
今となれば、あの時に、「出来ている」と思えていたこと自体がおかしい(笑)。
あれで、間違って勝っていたら、僕は何も気づかなかったかも知れない。
「これは小松が教えてくれたんだ」と思いました。
(ブログは最終章、「これからの夢」に続きます)