カルトの罪 オウム真理教5(再) | 秋 浩輝のONE MAN BAND

秋 浩輝のONE MAN BAND

はじめに言葉はない

オウムがサリン事件を起こした1995年頃はどんな時代だったのか? 

バブルが弾け、景気が極端に悪化した時期だった。大手企業は手のひらを返したように社員採用を取り止めたため、かなりの大卒者は就職浪人となり、フリーターやニートと呼ばれるモラトリアム人間が街に現れはじめた。そのピークは1998年頃だろう。ノストラダムスの大予言を信じた若者も多く、どうせ世紀末に世界が崩壊するなら、あくせく働いても仕方ないといった倦怠感、厭世観に満ちた空気が日本中に蔓延していた。そして若者たちは、いちように「自分探し」の旅を始めた。宗教は「自分ってなに?」という問いかけに「修行をすれば解る」という答を用意した。かくして、多くの若者達が新興宗教にのめり込んでいったのである。

 

オウム真理教をはじめとする新・新宗教の具体的な特徴を整理する。

①仏教、キリスト教など既成宗教のごった混ぜ
②超能力、UFO、心霊などの疑似科学の取り込み
③予言などの終末思想
④「偉大な教祖」のカリスマ性に依存した一神教

だいたいこのような共通点があるように思われる。特にオウムは尊師と呼ばれた教祖のカリスマ性が突出していて、オカルト性の強い疑似科学を前面に出したことでアイデンティティを獲得した特異な存在だった。問題はオカルトが危険なカルトに変質してしまったことにある。

それに加担したのはマスメディアである。
これも以前書いたことと重複するが整理すると、
①荒唐無稽な内容を無責任に垂れ流し続けたTV番組
②オカルト宗教を取り上げたムーなどの雑誌
③ノストラダムスの予言をフィクション化した五島勉
④オウムを擁護した宗教学者、文化人達の発言

それらの犯した罪、過ちは極めて大きい。サリン事件以降、メディアのオカルト表現はそこそこ自粛していたが、その後のスピリチュアル・ブームでまた息を吹き返したようにみえる。

オカルトがカルトに変質すのはいともたやすい。死んでも魂は存在すると信じてしまえば、死を恐れなくなる。あとは現世で良いことをすれば、あの世でも苦しまず、転生しても人間に生まれ幸せに暮らすことが出来る…こういった幻想を与えている宗教は非常に多い。そこまでのものなら、それでいいのだが、選ばれし者以外は生きていても意味がない…生まれ変わりは現世で正しいことをした我々だけが生き返る…などといったような選民思想が入ってくると大変危険なのである。そういった教説を脳にインプットされれば、人を殺してしまうことに罪悪感がなくなる、いやむしろ正しいことですらある…と思い込んでしまう。これは恐怖のマインドコントロールである。オウムもタリバンなど一部のイスラムの過激派も同質だと言える。最近では「イスラム国」などが典型的な例だ。宗教は人の心を癒すことも出来れば、狂気に駆り立てることもある両刃の剣なのである。

 

………………………………………………

 

(後書き)

今回、修正は最小限に留めた。内容的に私の主張はほとんど変わってないからだ。教団の主張や各死刑囚たちの教団で果たした役割や考え方はほとんど記述していない。カルトの罪シリーズは、何がオカルトからカルトに変質していくのかを明らかにしたいという主旨で書いたものだからだ。オウム真理教に関しては、それを手助けしたマスコミのエグさ、宗教評論家をはじめとした文化人の生ぬるさ、オウムが増長した当時の社会背景、マインドコントロールの実体などをメインにした。オウム真理教以外にも、人を洗脳することで成り立っている宗教、ネズミ講まがいの販売システムを行っている会社など、問題の多い団体はたくさんある。少なくても人の命を奪うことだけはあってはならない。そういったものがいつ、どこで、誰に忍び寄ってきてもおかしくないのが今の日本だと思う。自衛手段はあまりなく、とりこまれないような確固たる考えを自分が持つこと、それしかないのである。

 

 

(了)

再掲載(加筆修正あり)