10月3日、東京ふつうの人新聞の関連んで知り合った 渡辺タケシさんが、携わっている「クラヤミノtones」という ワークショップに参加してきました。 場所はお台場にある日本科学未来館7Fのイノベーションホール。
(近未来的な施設) 午後1時からスタートし、5分前に会場に到着しました。 会場入口で参加者が5列にならび、注意事項の案内の後、 真っ暗闇のホール内に誘導されていきました。
(入場待ちの来場者。扉の向こうは...) 誘導されたといっても、真っ暗闇ですから何も見えず、 とりあえず、壁づたいに手探りで一旦奥まで進み、 中央辺りに座りました。
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(会場内の様子、ではありませんがこんな感じ。。) 真っ暗闇というのは、日常生活においては存在せず、 今回はワークショップで密閉された人工的な空間でしたが、 視覚健常者においては、人工的でしか完全な暗闇は存在しないのです。 ワークショップ後の質疑応答で、日常生活において 真っ暗闇を再現できるかという質問がありましたが、 目隠し(アイマスク)とは、全然異なるもので、 方向感覚や位置感覚を喪失するような状態には至りません。 通常、上映中の映画館に入った時に、急に暗闇になるため、 一瞬、何も見えなくなりますが、時間が経過するにつれて、 徐々に目が慣れて、館内が見えてきます。 しかし、真っ暗闇というのは、終始暗闇で、どんなに時間がたっても、 何も見えてきません。 仮に通常の空間で目を閉じたところで、 それはフタをしているようなものであり、 光が弱くなっているだけで、光がゼロになっているわけではありません。 ホールの広さとしては、30m×20m ぐらいなのですが、 真っ暗闇においては、広ささえ認識できません。
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(入り口から撮影) 今回の参加者は80名ほどでしたが、 そのホール内にどれくらいの人数がいるかも把握できず、 声を発してもらえれば、位置や存在を認識できるのですが、 黙っていたら、まったくわかりません。 参加者の構成は男女半々ぐらいで、若い人が多かったですが、 中には入場直後に退場された人もおり、閉所恐怖症の人には、 絶対に向きません。 真っ暗闇において視覚が不能になると、 聴覚と触覚に頼るしかないのですが、 視覚がないことによって、時間の感覚さえ不明になります。 ワークショップにおいては、4つのグループにわかれ、 分かれるのも視覚的には認識できないため、 係員の人が四隅におり、彼らが発する声の方に向かって歩いていきます。 音声アナウンスによって、声を発生してみたり、 テーマに従って、個人だったり、グループで建物を想像しながら、 声を発生します。 そしてふと、ヘレン・ケラーの事を思い出しました。 彼女は幼い頃より、視聴覚に障害があり、 目・耳・口の三重苦だったわけですが、 子供にとって、触覚を頼りにするしかなく、言葉という概念すら知らず、 点字、指文字を知らなかったことを考えると、どれだけ孤独で、 不安であったであろうかと想像。 真っ暗闇にして、視覚を使えなくすることによって、 聴覚、嗅覚、触覚とも感覚が鋭くなり、 入場時に自分は、いろはすの500ミリの水を持ち込みましたが、 水の冷たさが一層強く感じました。 自分は安定したポジションをキープしたかったのか、 終始ほとんど壁ぎわでにべたっとして、 発声を積極的に取り組むよりも、自分がもし、 この真っ暗闇の空間を利用して、 ワークショップなり、プロデュースするとしたら何をするか考えてばかり。 いくつか、おもしろいアイデアが浮かんだので、 後日、ブログで紹介します。 暗闇について考えていて、思い出したのが、 手塚治虫の「奇子(あやこ)」という作品。 典型的な旧習深い農村のある一族。 し嫡子である子どもを封印しようと藏の中に閉じ込め、 真っ暗闇の中で監禁します。 その主人公でもあり、幽閉されているあやこは、 くらやみの中で育ち、一族のいろんな人と徐々に関係を深めていきます。 最後は、あやこに仕打ちをした一族が洞窟に閉じ込められ、 真っ暗闇の中で、自分たちが犯した数々の過ちにさいなまされ、 もだえ、苦しみ、それを脇であやこが高らかに 嘲笑するというシーンがあります。 暗闇の持つ意味合いを表現したマンガという点では、 「奇子(あやこ)」が突出しています。 今回は1周年記念でしたが、今後も、クラヤミノシリーズは、 いろいろありますので、ぜひ参加してみてはいかがでしょうか。。



