マザー・テレサ 愛の花束 | 道玄坂で働くベンチャー課長だったひと

道玄坂で働くベンチャー課長だったひと

Il n'est qu'un luxe veritable, et c'est celui des relations humaines.
Saint-Exupery(真の贅沢というものは、ただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ。
サン=テグジュペリ)
 

何のために働くのか? 
何のために生きているのか?
 
ふと朝の通勤時、ゆられながら考えていました。
 
日々やるべき仕事、実際にやる仕事は同じであっても、
心の持ちよう、目指すべき方向によって異なってきます。

イソップの寓話で「3人のレンガ職人」があります。


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ある旅人が道を歩いていると、3人の職人がレンガを積んでいるのを見かけました。
それを見て、旅人が1人の職人に聞きました。「何をしているのですか。」


・Aの職人:「見ればわかるだろう、レンガを積んでいるんだ」
先ほどより、元気にレンガを積んでいる職人を見かけましたので、同じ質問をしました。


・Bの職人:「ここに大きな壁を造っているんだ」
最初の職人と違い、テキパキとレンガを積んでいました。
さらに先に、イキイキと働いている職人を見ました。
重そうなレンガを運んでいます。その職人にも同じ質問をしました。


・Cの職人:「俺たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を造っているんだ!
ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うんだ!」
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カバンをあさっていると、偶然、いつか買って、
入れっぱなしにしていたマザー・テレサの本を発見しました。
 
そこには、自分の問いにヒントを与えるような、
珠玉の言葉がちりばめられていたのです。
 
「男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかで
 悩んでいる人々は、真の貧者です。もし、自分の
 手元にあるお金を他人に与えようとするなら、
 その人は富者、真の意味で豊かな人となれるのです」
 
現に、マザー・テレサ自身、活動を通して、
金銭的収入、報酬を受けているわけではありませんが、
神のために働く人々に対して、父である神は
必要なものをすべて与えてくださるという確信のもと、
実際に、多くの人がマザー・テレサの行為に共感し、
さまざまな寄付をしています。
 
時には、金曜、土曜分のお米がなくなり、
2万人の人が空腹のまま、2日間、何も口にすることが
できない状態になりそうでしたが、
マザー・テレサは、とにかく神に祈り、
結果的に、金曜日の朝になり、近所の学校が休校になり、
それらのパンがマザー・テレサのもとに到着しました。 
 
自分は、特別クリスチャンでも、
キリスト教を信じているわけありませんが、
マザー・テレサが「祈る」という行為には、
何か宗教を越えた普遍的なものを感じます。
 
マザー・テレサの名刺には、
次のような言葉が記されています。
 
「沈黙の実りは祈り
 祈りの実りは信仰
 信仰の実りは愛
 愛の実りは奉仕
 奉仕の実りは平和」
 
マザー・テレサの活動がテレビ番組で紹介されるときも、
マザー・テレサ伝とか、テレサ研究のようなものは、
一切書いてくれるなという本人からの要望があり、
また、後に続々と出版される自分についての本を
彼女自身、1冊も読まなかったといいます。
 
それは、マザー・テレサにとって、
人からチヤホヤされるとか批判されるとか、
どうでもよいことであり、自分のことを考えず、
ただ、ほかの人のことを考えていたのでした。
 
それは最近、流行ともなっている、
「セルフブランディング」や「エゴサーチ」などとは、
対極をなすような生き方であり、ノーベル平和賞受賞時も
こう心境を述べました。
 
「私個人はノーベル平和賞に値するとは思いません。
 でも、誰からも見捨てられ、愛に飢え、
 死に瀕している世界のもっとも貧しい人々にかわって
 賞を受けました。私には、受賞後の晩餐会は不要です。
 どうか、その費用を貧しい人たちのためにお使いください。
 私に与えられるのは祈りの場でしかないのですから・・・」
 
社会で仕事をしている以上、
契約においても報酬としてお金をもらうのは当然ですが、
同時に自分がどこまで、無報酬で、ボランティアで、
人々のために貢献、活動できるかを考えたときに、
自分の心の貧しさを省みた気がしました。
 
「人のため 愛の花束 芳香し」  シチョウアタリ



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