表彰式を終え、一途、駅へ。
レース会場から、駅までは徒歩5分くらいの道のり。
当時、パリに留学中であった自分は、リエージュから、
ブリュッセル経由でパリまでの電車も、
あらかじめ予約済みである。
その電車の発車時刻まであと30分。
十分、余裕を持ってつける時間である。
多くの人ごみをかき分け、10分ぐらいして、
駅の前まで着いた。駅の方を見ると、
かなりの人でごった返している。
始めは遠くから眺めていたが、
いつまでもそうしているわけにはいかないので、
仕方なしに人ごみの中に突っ込んでいった。
ベルギーをはじめ、ヨーロッパでは、
日本みたく駅に改札があるわけではなく、
車内で駅員が回覧して、切符をチェックするのが
一般的である。
人がまったく動かないので、
先がどうなっているのか、背伸びしてみてみると、
ホームにつながる通路のドアを警察が封鎖しているのである。
おそらく、ツール混雑による混乱防止のために、
そうしているように思われた。
仕方なしにそのまま5分待つが、
何も変わらず。
やがて、10分が経過。自分の予約している電車が
掲示板に表示されているが、まったく動かないので、
ホームまでいけない。
やばい、下手をすると電車を乗り損ねる、そう思った。
なにが一番困ったかといえば、
予約していた電車が、その日にパリに帰るための最終電車で
あったことである。つまり、この10分後に出発予定の電車に
乗れなければ、今日中に、パリに帰れないことになる。
そうした焦燥感から、なにが何でもホームまで
たどり着こうと、強引に前を進もうとするのだが、
恰幅のいい、鼻の大きいベルギー人のおじさんたちに
にらまれ、一向に前へ進めず、断念。
ついに、5分経ち、10分経ち、ついに予約していた電車は、
出発してしまった。
それから15分ぐらいしてか、通路の封鎖も開放されたわけであるが、
本当に後の祭りである。
時間的には夕方6時くらいで、7月ということもあり、
外はまだ明るかった。
とりあえず、泊まる宿を探さねばならないので、
旅行といえば定番のユースホステルへ。
しかしながら満室で、ユースホステルのロビーで、
他の客と一緒にツールのテレビを見ながら、
余韻にひたっていた。
2時間くらい、ロビーでキャンセル待ちをしていたが、
空きがでることもなく、夕食も食べていなかったので、
再度、街にくりだした。
その時、なにを食べたかははっきりとは覚えていないが、
おそらく、店でサンドウィッチか何か軽いものを
買って歩きながら食べていたような気がする。
その時、すでに夜9時ぐらいであった思うが、
街の地図を片手に、自分の予算に見合った5000円以下の
ホテルを1件ずつ、あたっていった。
少し考えればわかることであるが、
リエージュという、さほど大きくもない都市で、
ツールドフランスというイベントが行われていて、
選手はもとより、関係者、旅行客等で、どこも満室なのは当然である。
いまでもはっきり覚えているが、
同じ場所を何度もぐるぐる回り、
悲嘆にくれたものである。
せっかくツールをみたいがために、
パリからベルギーまで来たのに、
このまま泊まるとこもなく、
そとで一夜を過ごさねばならないのか?
本当に真剣に悩みました。
多少高くてもいいから、泊まらせてくれという感じでした。
もうその頃には、夜12時くらいになっていました。
あっちの12時は日本と違い、人通りもまったくなく、
静かで、哀愁が身にしみました。
そんなこんなで、だめもとで、再度、
ユースホステルにいったところ、
1人、キャンセルが入り、空室(空きベッド)が、あるとのこと。
心から安堵し、ベッドに入るなり、すぐに寝てしまいました。
翌朝、ユースホステルで軽く朝食を済ませ、街へ。
前日のプロローグに続き、その日も、
リエージュスタートで、他の都市へ向かうコースと
なっていましたが、一刻も早く、パリに帰りたい自分は、
依然、イベントをやっているのを背に、一目散に駅に向かい、
電車に乗りました。
ブリュッセルで一度降り、電車を乗り換え、
無事、パリに到着。
まあ、後から考えれば、あの予約していた電車を
乗り損ねたとき、パリ行きが、乗り継ぎの関係上、
最終だっただけで、ブリュッセルまでであれば、
いくらでもいけたわけです。
そうすれば、宿も当然ありますし、
観光もして良かったわけでありますし、
何よりも、自分の好きな「TINTIN(タンタン)」の
資料館にもいくことができたわけです。
大抵、そういうことって、後になってから、
思いつくもので、渦中にいるときは、
それほど考える余裕のないものです。
いまとなってはいい語り草ですが、
それがあってかいまでもベルギーに対する
いい印象がありません。
いまでも目をつぶると、脳裏をよぎるのです。
あのベルギーのおじさんの大きい鼻が!