先日、動物関連の専門チャンネル「アニマルプラネット」で、「キタキツネ」のドキュメンタリー番組をみた。
キタキツネは、毎年、4月頃に子どもを5~6匹産み、たいてい、母ギツネだけで子育てをするという。(父ギツネがいる時もあるらしいけど。)
で、5月には、まだまだ小さい子どものために、母ギツネは自分の餌を狩りながら、子ギツネたちに乳をやる。
6月から7月になると、子どもが欲しがるお乳をやろうとはしなくなり、代わりに子どもの分の餌も狩ってくるようになる。
7月になると、子ども達はすっかり身体も大きくなるが、まだ自力で狩りはできない。
そうこうする間にも、子ども達の何匹かは、天敵などにやられてしまうこともある。
8月には、全ての子ギツネが残っていることはあまりなく、たいてい、3~4匹に減っている。
この頃になると、子ギツネは、自分でも狩りをするようになる。
そして。
9月に入る頃、母ギツネは、ある日、突然、我が子に「牙」をむく。
文字通り、牙をむき、我が子をかみつき、襲いかかる。
子ども達は、優しかった母ギツネの豹変ぶりに、一瞬、とまどう。
かみつかれても、おそわれても、「どうしたの!?」というように、母親の元に戻りたがる。
しかし、それでも母親は、再び牙をむき、徹底的に子ども達に襲いかかる。
子ども達は、たまらなくなり、ついには、それぞれ、離ればなれとなり、方方へ散っていく。
これが最後、家族は、もう一緒には暮らさなくなる。
それぞれが、たった一人で生きていくのだ。
母ギツネは、子ギツネたちが「もう自分で生きていける」ということを悟ると、牙をむいて、無理矢理「自立させる」のだ。
もちろん、そうは言っても、子ギツネがその後、完全に自分で餌を狩ることができるようになったわけではない。
中には、うまく狩りができずに、たった一人で死んでしまう子ギツネもいる。
子ギツネのおよそ半分近くは、1歳を迎えることなく死んでしまうという。
実は私は、この話は前から知っていた。
キタキツネは、親が子どもにかみついて、無理矢理にでも自立させてしまうのだ。
自立させることができなければ、子どもは死ぬのだ。
だから、なんとしても、自分で生きていく術を身につけさせなくてはならない。
この話を思い出す度、私は、人間の親はどうだろうかと考えてしまう。
子どもを追い出すどころか、いつまでも、20歳を過ぎても、30歳を過ぎても、40歳を過ぎても、ずっと自分のもとに子どもを置いておきたいと願う親がたくさんいる。
これは日本に限った話だろうか。
いや、世界でも、主に先進国では同じような傾向があるのではなかろうか。
自然の世界では、キタキツネに限らず、たいていどの親も、「子どもを自立させる」ということを徹底的におこなう。
そう考えると、もしかしたら、「子どもを自立させる」というのが一番へたくそなのは人間かもしれない。
明日(もう日付が変わって今日か)は母の日だ。
こっぱずかしいけど、無事に育ててくれたお礼を一言でも言おうか。
そして、たまには親のために餌を狩っていってやろうかな。
元気でやっている自分の姿、自立した自分の姿を見せてやることが、一番の親孝行かもしれない。
先日、友人と電話で話していて、「どうしたらゆとりって持てるんだろう?」という話になった。
ゆとり。
誰もが求めるものではないだろうか。
精神的なゆとり。
物質的なゆとり。
経済的なゆとり。
能力的なゆとり。
時間的なゆとり。
空間的なゆとり。
どんな「ゆとり」でも、あればあるほど、「心」が安定してくる。
逆に、「ゆとり」がなければ、「心」は安定しない。
思うに、「ゆとり」は「引き算」ではなかろうか。
「can」から「must」を引いたもの、それが「ゆとり」
「can」というのは「できる」ということ。
「must」というのは「しなくてはならない」ということ。
そうだとすると、現状よりもゆとりを大きく持つには、次の2つのどちらかをすれば良いことになる。
1.「can」を今よりも大きくする。
2.「must」を今よりも小さくする。
「can」を大きくするには、「成長」あるのみ。
「成長」していくことによってゆとりが大きくなるのだ。これ、当たり前。
ところが、「成長」などというものは、そうカンタンに手に入るものではない。
「成長」には「時間」もかかるし、「努力」も「忍耐」も必要だったりする。
そこで考えるべきは、「must」を小さくするという方向性だ。
「must」の中には、「本当にそうしなくてはならない」というものもあれば、中には、「自分自身の独特な価値観」によって「そうしなくてはならない」と思い込んでいるものもある。
特に、「価値観・考え方」に大きな偏りのある人は、他人からみて「そんなの必要ないのに」という部分まで「must」の中に入れてしまっている場合がある。
そういう人は、自分が「must」の中に入れているものを見ても、自分の「価値観・考え方」を見直さない限り、決してそれらを「must」の外に出すことはできない。
自分が「must」と信じていることを「mustではないかもしれない」と思えたら、そこが「ゆとり」への第一歩なのではないだろうか。
「must」の中のものを外に出して、「mustではない」としたところで、命まで取られるなんてことは、まあ、ほとんどないだろう。
「can」を大きくしながら、「must」を小さくしていく。
「ゆとり」を持つには、この2つの方向の両方を考えると良いと思う。
ゆとり。
誰もが求めるものではないだろうか。
精神的なゆとり。
物質的なゆとり。
経済的なゆとり。
能力的なゆとり。
時間的なゆとり。
空間的なゆとり。
どんな「ゆとり」でも、あればあるほど、「心」が安定してくる。
逆に、「ゆとり」がなければ、「心」は安定しない。
思うに、「ゆとり」は「引き算」ではなかろうか。
「can」から「must」を引いたもの、それが「ゆとり」
「can」というのは「できる」ということ。
「must」というのは「しなくてはならない」ということ。
そうだとすると、現状よりもゆとりを大きく持つには、次の2つのどちらかをすれば良いことになる。
1.「can」を今よりも大きくする。
2.「must」を今よりも小さくする。
「can」を大きくするには、「成長」あるのみ。
「成長」していくことによってゆとりが大きくなるのだ。これ、当たり前。
ところが、「成長」などというものは、そうカンタンに手に入るものではない。
「成長」には「時間」もかかるし、「努力」も「忍耐」も必要だったりする。
そこで考えるべきは、「must」を小さくするという方向性だ。
「must」の中には、「本当にそうしなくてはならない」というものもあれば、中には、「自分自身の独特な価値観」によって「そうしなくてはならない」と思い込んでいるものもある。
特に、「価値観・考え方」に大きな偏りのある人は、他人からみて「そんなの必要ないのに」という部分まで「must」の中に入れてしまっている場合がある。
そういう人は、自分が「must」の中に入れているものを見ても、自分の「価値観・考え方」を見直さない限り、決してそれらを「must」の外に出すことはできない。
自分が「must」と信じていることを「mustではないかもしれない」と思えたら、そこが「ゆとり」への第一歩なのではないだろうか。
「must」の中のものを外に出して、「mustではない」としたところで、命まで取られるなんてことは、まあ、ほとんどないだろう。
「can」を大きくしながら、「must」を小さくしていく。
「ゆとり」を持つには、この2つの方向の両方を考えると良いと思う。
人は、人生の岐路に立たされた時、いくつかある進路の中から、なるべく「いばら」のない道を選ぼうとする。
誰だってそーする。
私もそーする。(形兆兄貴じゃないぞ)
しかし、考えてみれば、「いばらのない道」などはあり得ない。
人生において、どの道を進もうとも、必ず、多かれ少なかれ、「いばら」には遭遇してしまうものだ。
仮に、目の前に、「右」「真ん中」「左」の3本の道が選択肢として存在しているとしよう。
岐路に立たされた時、うすぼんやりと、それぞれの道の先にどれほどの「いばら」があるのか、誰でも感じ取ろうとする。
ところが、ここで人は、2つのタイプに分かれるように思う。
1つ目は、「いばら」があることを覚悟するタイプ。
2つ目は、「いばら」がないことを確認するまで進まないタイプ。
言うなれば、前者には「覚悟」があって、後者には「覚悟」がない。
「覚悟」があるタイプは、きっと、「どの道を選んでもいばらはつきものだから、とにかく、ある程度の希望を持てたら、1本選んで、進んでみよう」というように、ガンガン進んでいくことができるのだろう。
例えば、真ん中の道を進んだとしよう。
進んでいく先に「いばら」を見つけても、そんなものはあって当たり前。多少、かすり傷を負ったくらいでは、なんともない。
歩き方も、最初から「いばら」があることを想定しているから、とても慎重だし、仮に「いばら」で傷を負っても、その対処も万全だ。
それよりも、「いばら」じゃないところにイイ物を見つけた!
泉が湧いていたり、チョウチョウが飛んでいたり、小鳥がさえずっていたり、きれいな花が咲いていたり!
いばらよりも、そういう、「思いも寄らないプラスのもの」に目が行って、それらを発見して幸せを認識することができる。
しかし、「覚悟」がないタイプは違う。
仮に、右の道を選んだとしよう。
慎重に選んだはずの道には「いばら」がないと思い込んでいる。
だから、歩き方もかなり無防備。
辺りに見える泉やチョウチョウや小鳥や花などは、あって当たり前、特に感動もなにも感じやしない。
ところが、無防備にるんるんとスキップしながら歩いていると、思いがけず「いばら」が身体をかすめる。
ほんのちょっとしたすり傷なのに、覚悟がなかった分だけ大騒ぎ。
「うおぉぉぉ! イッテ~!!! なんだよ、おい、最悪だよ、死んじゃうよ~! くっそ~、あっちの道に行っておけば良かった、マジで! もうだめだよ、この道、イヤだよ~! もうヤダ、もうヤダ、もうヤダ!!!」
・・・周りから見れば、「そんな程度のかすり傷でヒーヒー言ってんじゃないよ」とあきれてしまうくらいだが、本人にとっては、「いばら」という「思いもよらないマイナスのもの」に目が行ってしまい、すっかり前へ進めなくなってしまっている。
「覚悟」がある人は、「マイナス」よりも「プラス」に目が行き、
「覚悟」がない人は、「プラス」よりも「マイナス」に目が行ってしまう。
「覚悟」がある人は、多少の困難でも乗り越えて進んでいけるが、
「覚悟」がない人は、ほんの少しの困難でも前へ進む力を失ってしまう。
前回、「幸福」も「不幸」も、自分の「認識」しだいだ、ということを書いた。
その認識も、何かを始める最初の時点で「覚悟」を持つか持たないかで違ってくるのではなかろうか。
去年の震災から、私も含め、日本中が意気消沈してしまったところがあるが、これから、どんな道を歩いて行こうとも、少なくとも自分だけは、「覚悟」を持って進んでいきたいと思う。
「覚悟」を持つことが、「幸福」を認識することにつながるのだと、思う。
誰だってそーする。
私もそーする。(形兆兄貴じゃないぞ)
しかし、考えてみれば、「いばらのない道」などはあり得ない。
人生において、どの道を進もうとも、必ず、多かれ少なかれ、「いばら」には遭遇してしまうものだ。
仮に、目の前に、「右」「真ん中」「左」の3本の道が選択肢として存在しているとしよう。
岐路に立たされた時、うすぼんやりと、それぞれの道の先にどれほどの「いばら」があるのか、誰でも感じ取ろうとする。
ところが、ここで人は、2つのタイプに分かれるように思う。
1つ目は、「いばら」があることを覚悟するタイプ。
2つ目は、「いばら」がないことを確認するまで進まないタイプ。
言うなれば、前者には「覚悟」があって、後者には「覚悟」がない。
「覚悟」があるタイプは、きっと、「どの道を選んでもいばらはつきものだから、とにかく、ある程度の希望を持てたら、1本選んで、進んでみよう」というように、ガンガン進んでいくことができるのだろう。
例えば、真ん中の道を進んだとしよう。
進んでいく先に「いばら」を見つけても、そんなものはあって当たり前。多少、かすり傷を負ったくらいでは、なんともない。
歩き方も、最初から「いばら」があることを想定しているから、とても慎重だし、仮に「いばら」で傷を負っても、その対処も万全だ。
それよりも、「いばら」じゃないところにイイ物を見つけた!
泉が湧いていたり、チョウチョウが飛んでいたり、小鳥がさえずっていたり、きれいな花が咲いていたり!
いばらよりも、そういう、「思いも寄らないプラスのもの」に目が行って、それらを発見して幸せを認識することができる。
しかし、「覚悟」がないタイプは違う。
仮に、右の道を選んだとしよう。
慎重に選んだはずの道には「いばら」がないと思い込んでいる。
だから、歩き方もかなり無防備。
辺りに見える泉やチョウチョウや小鳥や花などは、あって当たり前、特に感動もなにも感じやしない。
ところが、無防備にるんるんとスキップしながら歩いていると、思いがけず「いばら」が身体をかすめる。
ほんのちょっとしたすり傷なのに、覚悟がなかった分だけ大騒ぎ。
「うおぉぉぉ! イッテ~!!! なんだよ、おい、最悪だよ、死んじゃうよ~! くっそ~、あっちの道に行っておけば良かった、マジで! もうだめだよ、この道、イヤだよ~! もうヤダ、もうヤダ、もうヤダ!!!」
・・・周りから見れば、「そんな程度のかすり傷でヒーヒー言ってんじゃないよ」とあきれてしまうくらいだが、本人にとっては、「いばら」という「思いもよらないマイナスのもの」に目が行ってしまい、すっかり前へ進めなくなってしまっている。
「覚悟」がある人は、「マイナス」よりも「プラス」に目が行き、
「覚悟」がない人は、「プラス」よりも「マイナス」に目が行ってしまう。
「覚悟」がある人は、多少の困難でも乗り越えて進んでいけるが、
「覚悟」がない人は、ほんの少しの困難でも前へ進む力を失ってしまう。
前回、「幸福」も「不幸」も、自分の「認識」しだいだ、ということを書いた。
その認識も、何かを始める最初の時点で「覚悟」を持つか持たないかで違ってくるのではなかろうか。
去年の震災から、私も含め、日本中が意気消沈してしまったところがあるが、これから、どんな道を歩いて行こうとも、少なくとも自分だけは、「覚悟」を持って進んでいきたいと思う。
「覚悟」を持つことが、「幸福」を認識することにつながるのだと、思う。