〈前回の続き〉
あるいは、発音を練習してもなかなか上達しなかったり、英文を上手に暗唱できなかったり、文法の説明を上手にできなかったりする。
何度繰り返しても、どんなに時間をかけてもなかなか成長していかない場合に、やはり教師は、なぜその努力が報われないのか、原因を探してやらなくてはならないのだ。
そして、時間をかけても努力が報われないのにも2つの原因がある。
1つは、努力のやり方そのものが間違っているということ。
もう1つは、努力している当人の頭の中で、適切な「意識」を持っていないということだ。
適切な意識を持つ、というのは、自然にできる人にはなんということもないことだが、自分を客観視しながら、自分の欠点や課題を意識するということだ。
繰り返して時間をかけても成長していかない場合、この「適切な意識」が欠けていることがある。
だから教師は、前者のやり方そのものを模索するだけではなく、後者について、生徒にどのような「意識」が欠けているか気づかせてやらなくてはならないのだ。
これが「人を成長させる」ということだ。
自然に理解できる人や成長できる人には、教師はほんの少し支えてあげれば良いかもしれないが、これができない人には教師の力が必要なのではないだろうか。
9月11日の記事に対して、読者から個人的な感想を頂戴した。
「人に何かを分からせる」とか「人を成長させる」というのは、違うのではないか、という感想だ。
人は自分で分かるのだし、自分で成長するものだ、という考えだ。教師が「分からせる」とか「成長させる」という表現は、おこがましさを感じさせる、というのだ。
なるほど。その通りだ。
しかし、英語を教えていると、生徒が自分で何かを分かろうとしても、なかなか「分かれない(理解できない)」ことがある。
生徒が自分で成長しよう努力しても、なかなか「成長できない」ことがあるのだ。
教師は、なぜその生徒が理解できないか、なぜなかなか成長していかないか、よく観察して原因を探してやらなくてはならない。
同じ文法の説明を読んで、理解できる人と理解できない人に分かれるのには2つの原因がある。
「人に何かを分からせる」とか「人を成長させる」というのは、違うのではないか、という感想だ。
人は自分で分かるのだし、自分で成長するものだ、という考えだ。教師が「分からせる」とか「成長させる」という表現は、おこがましさを感じさせる、というのだ。
なるほど。その通りだ。
しかし、英語を教えていると、生徒が自分で何かを分かろうとしても、なかなか「分かれない(理解できない)」ことがある。
生徒が自分で成長しよう努力しても、なかなか「成長できない」ことがあるのだ。
教師は、なぜその生徒が理解できないか、なぜなかなか成長していかないか、よく観察して原因を探してやらなくてはならない。
同じ文法の説明を読んで、理解できる人と理解できない人に分かれるのには2つの原因がある。