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~俺もないけど心配するな~

デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ

〈前回の続き〉

あるいは、発音を練習してもなかなか上達しなかったり、英文を上手に暗唱できなかったり、文法の説明を上手にできなかったりする。

何度繰り返しても、どんなに時間をかけてもなかなか成長していかない場合に、やはり教師は、なぜその努力が報われないのか、原因を探してやらなくてはならないのだ。

そして、時間をかけても努力が報われないのにも2つの原因がある。

1つは、努力のやり方そのものが間違っているということ。
もう1つは、努力している当人の頭の中で、適切な「意識」を持っていないということだ。

適切な意識を持つ、というのは、自然にできる人にはなんということもないことだが、自分を客観視しながら、自分の欠点や課題を意識するということだ。

繰り返して時間をかけても成長していかない場合、この「適切な意識」が欠けていることがある。

だから教師は、前者のやり方そのものを模索するだけではなく、後者について、生徒にどのような「意識」が欠けているか気づかせてやらなくてはならないのだ。

これが「人を成長させる」ということだ。

自然に理解できる人や成長できる人には、教師はほんの少し支えてあげれば良いかもしれないが、これができない人には教師の力が必要なのではないだろうか。

9月11日の記事に対して、読者から個人的な感想を頂戴した。

「人に何かを分からせる」とか「人を成長させる」というのは、違うのではないか、という感想だ。

人は自分で分かるのだし、自分で成長するものだ、という考えだ。教師が「分からせる」とか「成長させる」という表現は、おこがましさを感じさせる、というのだ。

なるほど。その通りだ。


しかし、英語を教えていると、生徒が自分で何かを分かろうとしても、なかなか「分かれない(理解できない)」ことがある。

生徒が自分で成長しよう努力しても、なかなか「成長できない」ことがあるのだ。

教師は、なぜその生徒が理解できないか、なぜなかなか成長していかないか、よく観察して原因を探してやらなくてはならない。

同じ文法の説明を読んで、理解できる人と理解できない人に分かれるのには2つの原因がある。

1つは説明の仕方そのものが悪いということ。
もう1つは、説明を読む人が、読みながら適切な頭の使い方をしていないということである。

教師は前者の改善を試みるだけではなく、後者の改善にも試みるべきだ。これが「人に何かを分からせる」ということだ。

〈続く〉
私は英語教師だ。

2001年10月に教室を立ち上げてから早8年が過ぎようとしている。
まだまだ未熟だなぁ、と思う。

人に何かを分からせるのは、とっても難しい。
人を成長させようとするのは、とっても難しい。

でも、その難しいことに挑戦している自分って、ちょっと誇らしいかも。


英語を教える対象はもっぱら社会人のおとなである。
大人だけど、うちの教室に来ると、みんな子供のようになる。

答えを教えてくれないことにイライラしたり、自分で答えが見つからなくてふてくされたりする人もいる。

でも、私は答えを教えない。
ヒントは言うけれど、決して答えを教えない。

だって、考えれば分かるはずだから。


そう、「考えれば分かるはず」の答えを、考えもせずに「教えて欲しい」という人が多い。

私の教室では「考えなさい」というセリフが、一日に100回は聞こえてくるだろう。
「考えなさい」と問いかけることが、教師には必要なのだと思う。

「覚えなさい」は楽だ。
「考えなさい」は辛い。

「考えなさい」と言い続けている間は、こちらだってジッと辛抱しなくてはならない。
教える側に辛抱が足りないと、「もう教えちゃえ~」となってしまう。

でも、「考えさせる」ということをせずに、ただ答えを教えても、本当に生徒の中に深く残りはしない。
ただ与えられたものは残りにくいが、自分で獲得したものは深く残る。

でもでも、「考えさせる」ということは、生徒にも、教師にも、大きな負担となる。

この辺りが、ひじょ~に難しいのだ。
「考えさせる」ということは「問いかける」ことであって「答えを教える」ことではない。

時には、あっさり答えを教えることもある。
だけど、それは生徒が「自分で考えよう」と思ってくれている場合だけだ。


自分で考えて、自分で答えを出そうとする人は、自分の人生をハッピーに過ごすことができる。
逆に、いつも他人に答えを求めがちな人は、自分の周りのハッピーに気づくことができない。

英語を身につけようとすることは、自分で答えを出そうとすることに近い。
だから私は「自分で答えを出しなさい」という授業スタイルだけは、どうしてもやめることはできないのだ。