~俺もないけど心配するな~ -28ページ目

~俺もないけど心配するな~

デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ

先週の土曜日から、私の教室の換気扇の外のところに、どういう訳か、「ハト」が寄り付くようになった。

最初は何かの物音だったのだが、しばらくして「ポッポ~」というハトの声が聞こえてきた。

換気扇の外は、部屋の中からは見えない。

そこで、窓を開け、デジカメを持って手を伸ばし、換気扇のあたりに狙いをつけてシャッターを押してみた。

すると、一羽のハトが、外を向いて換気扇のところに座っている姿がバッチリ写っていた。

巣でも作りたいのだろうか?

私は動物が好きだ。

だから、最初はそのままそっとしておこうと思った。

しかし、私は良くても、生徒の誰もが許容できるわけではないだろう。

写真を見てみると、幸い、まだ巣らしきものはないようだ。

私は、心を鬼にし、換気扇を少し回してすぐ止めたり、換気扇を内側から叩いたりして、追い払うことにした。

すると、「バタバタッ」という音がして、ハトは飛び去っていった。


…かに思えたのもつかの間、しばらくして、今度は給湯室の換気扇から再び「バタバタッ」という音が聞こえてきた。


以来、ハトと私の地味~な攻防が昨日まで続いている。

ハトと言えば「平和のシンボル」だ。

早くどっかに行って欲しいような、ずっといて欲しいような、なんとも複雑な気分だ。

さて、どうなることやら…。



前回も書いたが、「苦手なこと」というのは誰にでもあるものだ。


念のためにことわっておくが、ここでいう「苦手なこと」は「苦手なもの」とは違う。「毛虫が苦手」とか、「○○さんのような人が苦手」とか、そういうことではない。

あくまでも、苦手な「こと」であって、例えば、「話すことが苦手」とか「計算することが苦手」というように、「自分が行うこと」についての話だ。


さて、たとえ苦手なことであっても、苦手なままでも自分の人生に支障がないようなことは放っておけば良い。

山に住んでいる人が泳ぐのが苦手でも困ることは少ないだろう。

問題なのは、苦手なまま放っておいたら自分の人生に支障があるようなことだ。

例えば、交通手段が車しかないような所に住みながら、車の運転が苦手だったり、

はたまた、国際会議の仕事をしているのに英語が苦手だったりするような場合だ。

前回も書いたが、周りの人やら環境やらが手助けしてくれているうちは良い。

しかし、いざ自分だけでこなさなくてはならないような「必要性」が出て来たら、「さあ大変!」ってなことになる。

そういう苦手なことを克服するにはどうすれば良いだろうか?


思うに、「苦手なこと」を克服できない原因は、「忍耐力の弱さ」にあるのではなかろうか。

得意なことや好きなことならば、多少辛い目にあっても「辛抱」することができるものだ。

ところが、これが苦手なことになったとたん、その忍耐力が急激に落ちる。

得意なことをしている時の忍耐力を「100」としたら、苦手なことをしている時の忍耐力は、きっと「2」とか「3」とかではないだろうか。

それくらい、一般的に誰でも、苦手なことに対しては、忍耐力は弱くなってしまうものだと思う。

忍耐力が弱いから、辛抱して最後まで続ける前に、「あ~、もういいやっ!」とか「う~、ダメだ~!」とか言って放り投げてしまうのだ。

せめて、得意なことに対する忍耐力の「半分」でも発揮できれば最後まで続けることができるかもしれないのに、ほとんどゼロに近い忍耐力では、とても最後まで続かない。

苦手なことを克服するには、辛抱強く「繰り返し継続すること」が絶対に必要だ。


「忍耐力」は「精神年齢」に比例する。

「実年齢」にも比例するかもしれないが、小さな子どもでも忍耐力があったり、高齢になるほど忍耐力が弱まるケースが多く見られることからも、やはり一般的には「忍耐力」は「精神年齢」に比例すると言えるだろう。

とすると、苦手なことを克服するには次の3つを意識すると良い。


1. 周りの人間に頼りすぎず、できることは自分でやり、精神的に「大人」であり続けるよう、日頃から意識する。

2. 苦手なことをしている時に、自分の忍耐力が著しく低下していることを意識する。

3. 2を意識しつつ、得意なことをしている時のような忍耐力を発揮できるよう、自分を励ます。「頑張れ、自分!」


この3つを意識しながら、地道に繰り返し継続していけば、たいてい、どんなことだろうと「苦手」ではなくなる。

あまりに辛い時は多少休んだって構わない。

大事なのは、辛抱強く継続することなんだから。

そして、苦手を1つでも克服できたら、また多いに自分を誉めてやれば良い。




英語を教えていると、生徒が「苦手なこと」にぶつかって苦しんでいる姿をしょっちゅう見なくてはならない。

まあ、苦しい状況に直面させているのは私自身と言えなくもないが…

しかし、教師はその生徒の苦しむ姿から目を背けてはいけないのだろうと思う。


私の教室では、英語に関して、「音声学習」と「文法学習」に分けて指導しているが、たいてい、どの生徒も、どちらかが苦手、どちらかが得意、というように分かれる。

両方とも苦手とか、両方とも得意とかいう人は少ない。


一般的に言って、誰にとっても「苦手なこと」というのは、初めからうまくいかないものだ。

逆に言えば、初めにうまくいかなかったから、「自分はこれが苦手だ」という意識が芽生えるのだと思う。

「音声学習」が苦手な人は、決まって「歌うこと」や「リズムに乗る」といった「音」に関することが苦手だ。

一方、「文法学習」が苦手な人は、「理論的に考える」や「言葉とイメージを繋げる」といった「数学的」な思考がうまくできない人が多い。


まあ、「苦手なこと」というのは誰にでもあるものだ。

ただ、一口に「苦手なこと」と言っても、「放っておいても害の少ないもの」もあれば、「放っておいたら非常にまずいもの」もある。

人は誰でも、苦手なことを放っておいて良いか否かを自分なりに判断しながら、日常生活を送っているはずだ。

放っておいても害が少ないことなら、なるべくその苦手なことに出くわさないように、避けていることだろう。

避けて通れるうちは、避けて通るのでも良いかもしれない。

逆に避けて通れず、放っておいて困ることなら、きっとなんとかして、その苦手なことを「克服」しようとするだろう。

ところが、本当なら、「放っておいたら困ること」なのに、当の本人が克服しようとする前に、周りの人間やら環境やらが手助けをしてしまい、ついついほったらかしになってしまうことがある。

そういう環境に慣れた人が、いよいよ自分一人で進んでいこうと思った時に、今まで放っておいた「苦手なこと」が行く手を阻む。

苦手なことは、よほどアレルギーなどの病的なことでない限り、たいていは自力で克服できるものだと私は思う。

なぜそう思うかと言うと、私自身が、これまでに「苦手を克服する」ということを経験したことがあるからだ。

この経験がない人は、なかなか「苦手なことは克服できる」と考えることができない。

一つでも、どんな小さなことでも、「苦手を克服した」という経験があれば、次の苦手も克服できると信じられる。

だから教師は、生徒が自分で「苦手を克服できる」と信じられるように、一つでも「苦手を克服した」ということを経験させてやらねばならない。

それを経験させてやるためにも、「あなたにだって苦手は克服できる」と教師自身が信じてやることが大切なんだと思う。

また、本人にそう伝え続けることが、大切なんだ、と思う。

生徒が苦しむ姿から目を背けずに。