誰にでも「帰る場所」というのはあるものだと思う。
帰る場所は必ずしも1つではないだろうし、必ずしも「建物(家)」であるとは限らない。
私にとって、帰る場所は、たくさんある。
前回書いた、日野市のアパート跡地(今はマンション)だって、もし近くを通ることがあればきっと立ち寄ってしまうだろう。
八王子の塾(今はもうない)も同じだ。
高校時代に留学していたオハイオ州の家も、もはやホストファミリーは住んでいないが、私にとって帰る場所の1つだ。
昔住んでいた鎌ヶ谷グリーンハイツもそうだし、かつて住んでいた東中沢の実家も、たとえ建物がなくなっても、帰る場所であることに変わりない。
また、帰る場所は住んでいた家ばかりではない。
通っていた幼稚園も、小学校も、中学校も、高校も大学も、みんなでよく行ったラーメン屋も、バーベキューした河原も、営業で廻った街も、勤めていた会社のビルも、みんな私にとっては「帰る場所」だ。
要するに、帰る場所は、自分の記憶の中にあるのだ。
記憶の彼方にある「思い出」こそが、「帰る場所」なんだと思う。
そういう思い出たちを呼び戻すためのきっかけが「帰る場所」なんだと。
だから、帰る場所は、たとえ建物がなくなっても、その当時にいたはずの人達がもはやいなくなっても、自分の中に「忘れまい」という「意志」がある限り、なくなったりはしない。
その価値は、私自身が認めていれば良いのだ。
そういう「帰る場所」を、ずっと大切にしようと思う。
昨日、展示会がらみの会議のため、八王子に行ってきた。
私は大学時代、日野市平山で一人暮らししていたので、すぐ隣の八王子はほとんど生活圏内だった。
当時は、原チャリに乗って、家とバイト先と友人らの家を行き来する毎日だった。(学校はど~した?)
だから私にとって、八王子は懐かしい、思い出深い場所なのだ。
昨日は、会議が14時30分からだったが、早めに家を出て、愛車デミオで八王子に向けて出発した。
松戸の家から約80キロ走り続け、懐かしい八王子インターを降りたのは13時頃だった。
会議までは、まだまだ時間がある。
私は、かつて自分が住んでいたおんぼろアパートを見に行くことにした。
ところが、着いてみると、おんぼろアパートは取り壊され、新しいマンションができていた。
もちろん、そこが残っていたとしても、既に16年近くが経過しており、誰か知り合いがいるわけでもない。
それでも、「帰る場所」がまた1つなくなってしまったような、何とも言えない寂しさを感じた。
さて、会議が18時頃終わり、私は隣の福生市の方へ車を走らせた。
大学時代にアルバイトでお世話になった当時の塾オーナー夫妻に久しぶりに会う約束をしていたのだ。
この夫妻は今は塾はやめてしまい、別のお店を福生市で経営しているという。
閉店時刻を見計らってお店に行くと、すぐに懐かしい笑顔が出迎えてくれた。
お二人に会うのは、2002年の秋以来だと思う。
実に8年ぶりだ。
近くのファミレスで食事をしながら、お互いの近況を報告したり、思い出話に花が咲いたり、楽しい一時を過ごした。
このお二人がいたから、私は今、英語教師をやっていると言っても良い。
この人たちと出会っていなければ、今の自分はいない。
そういう大切な人たちなのだ。
お互い、そりゃあ16年分、歳を重ねたが、お二人にはあの頃と変わらない笑顔があった。
私が住んでいたアパートはなくなってしまったが、八王子に来れば、こうやって迎えてくれる人達がいる。
帰り道、そういう幸せを噛みしめながら、夜中の高速道路を感慨深く走った。
この人たちとの思い出のある八王子は、いつまでも私にとって「帰る場所」の1つであり続けるだろう。
私は大学時代、日野市平山で一人暮らししていたので、すぐ隣の八王子はほとんど生活圏内だった。
当時は、原チャリに乗って、家とバイト先と友人らの家を行き来する毎日だった。(学校はど~した?)
だから私にとって、八王子は懐かしい、思い出深い場所なのだ。
昨日は、会議が14時30分からだったが、早めに家を出て、愛車デミオで八王子に向けて出発した。
松戸の家から約80キロ走り続け、懐かしい八王子インターを降りたのは13時頃だった。
会議までは、まだまだ時間がある。
私は、かつて自分が住んでいたおんぼろアパートを見に行くことにした。
ところが、着いてみると、おんぼろアパートは取り壊され、新しいマンションができていた。
もちろん、そこが残っていたとしても、既に16年近くが経過しており、誰か知り合いがいるわけでもない。
それでも、「帰る場所」がまた1つなくなってしまったような、何とも言えない寂しさを感じた。
さて、会議が18時頃終わり、私は隣の福生市の方へ車を走らせた。
大学時代にアルバイトでお世話になった当時の塾オーナー夫妻に久しぶりに会う約束をしていたのだ。
この夫妻は今は塾はやめてしまい、別のお店を福生市で経営しているという。
閉店時刻を見計らってお店に行くと、すぐに懐かしい笑顔が出迎えてくれた。
お二人に会うのは、2002年の秋以来だと思う。
実に8年ぶりだ。
近くのファミレスで食事をしながら、お互いの近況を報告したり、思い出話に花が咲いたり、楽しい一時を過ごした。
このお二人がいたから、私は今、英語教師をやっていると言っても良い。
この人たちと出会っていなければ、今の自分はいない。
そういう大切な人たちなのだ。
お互い、そりゃあ16年分、歳を重ねたが、お二人にはあの頃と変わらない笑顔があった。
私が住んでいたアパートはなくなってしまったが、八王子に来れば、こうやって迎えてくれる人達がいる。
帰り道、そういう幸せを噛みしめながら、夜中の高速道路を感慨深く走った。
この人たちとの思い出のある八王子は、いつまでも私にとって「帰る場所」の1つであり続けるだろう。
不安。
私の中でも、未だに不安がある。
私の住む千葉県北西部も、あの日の地震は相当強かった。怖かった。
そして、それに続いて、テレビの中には津波の映像が。
それまで自分が築き上げてきたものが、
それまで自分が大切に守ってきたものが、
為す術もなく、あっという間に失われて行った。
それを目の前で見せつけられ、途方に暮れる人々の姿がテレビに映し出された。
「人は誰でも、いつか必ず死ぬ」
「形あるものは、いつか必ず壊れる」
...なんてことは、日頃生活している時には誰もが忘れがちだ。
明日も生きていられるか分からないのに、そんな保証はないのに、我々は「明日も当たり前のように生きているはずだ」と錯覚してしまう。
それを忘れていないと、未来に希望を持って進むことができないのかもしれない。
今回の地震と津波は、我々にそのことを改めて、強烈に思い出させた。
直接被災したわけではないのに、被災地以外でも、きっとこれから先のことに不安になっている人はたくさんいるだろうと思う。
今、自分がやっていることだって、明日突然、ぶちこわされてしまうかもしれない。
自分の命だって、明日突然、終わってしまうかもしれない。
いや、明日でなくても、命はいつかは必ず終わってしまう。
では、今やっていることに、意味はあるのか?
今、生きることに、意味はあるのか?
そうやって、未来への希望を持てなくなってしまっている人もいるかもしれない。
そういう私も、地震の後、ちょっと、少しだけ、そう思ってしまった瞬間がある。
「どうして人はいつか死ぬのに、一生懸命生きるのだろうか?」
こんな問いを子供の頃に思い浮かべた人は少なくないだろう。
あるいは子供に質問されて、答えに窮した人も少なくないだろう。
私も今回の地震の後、何度もこのことについて考えた。
そして、今の自分なりの答えをまとめてみた。
以下、長くなるけど、読んでもらえたらうれしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「人はなぜ生きるのか?」という問いかけに対し、それは「生きる意味」を尋ねているのか、それとも「生きる仕組み」を尋ねているのか、ということを分けて考える必要がある。
まず、「意味」と「仕組み」は違う。
どんなことにも「意味」と「仕組み」に分けて考えられる。
「仕組み」を理解したからと言って、そこに必ずしも「意味」があるとは限らない。
特に、「自然」に関することは、我々が仕組みを理解してもしなくても発生するし、続いていく。
1気圧において、水がどうして摂氏100度で沸騰するのか? そこには「仕組み」はあるかもしれないが、「意味」があるとは思えない。
つまり、「仕組み」がどうなっているかを理解することと、「意味」が何であるかを問うことは、同じことではない。
まず「生きる仕組み」について答えるならば、それは「命は生きるようにプログラムされているからだ」ということになる。
先日、流れ星を見たときにも書いたが、生き物には「細胞」があって、その中には「核」があって、その中には「染色体」があって、その中には「A、T、C、Gの4つの塩基からなるタンパク質の設計図」がある。
「A、T、C、Gの4つの塩基からなるタンパク質の設計図」は、たいていは自分の種を守り、増殖するようにとプログラムされている。
これを誰がプログラムしたのか、それは分からない。
神がいて、神の意志がこれをプログラムしたのかもしれないし、全くの偶然でそういうプログラムができあがったのかもしれない。
私は特定の宗教を信仰していないので、「神」の存在をかたくなに信じているわけではない。
しかし、いずれにせよ、命は「生きなさい」というプログラムによって、ずっと今まで続いてきた。
恐竜が絶滅するような時であっても、「命」は形を変え、環境に合わせ、ずっと次の世代へと命をつないできたのだ。
命は、自分自身に「意志」があるから生きるのではなく、最初から「生きる」ように設計されているから生きるのだ。
これが「生きる仕組み」だ。
昔、私の家では猫を飼っていた。名前はアキラだ。
アキラは、他のペット動物と同じように、毎日、寝て、起きて、餌を食べ、水を飲んで、排泄して、家の中を走り回って、飼い主と遊んで、壁とかをひっかいて、また寝て、起きて、ということを延々と繰り返していた。毎日、毎日。
何を目標として生きているわけでもない。
ただ、毎日、同じことを繰り返しているだけだった。
私はそんなアキラを見て、「こいつは、どうして生きているんだろう?」と思った。
アキラにとっては、おそらく「理由」もなければ「意味」もないのだろう。
アキラは、生き物だからこそ、最初にプログラムされた通りに「生きる」を続けていただけなのだ。
別にアキラに限らない。
生き物は「生きる意味」を持たなくても、生きていけるのだ。
いや、生きていけるのではなく、「生きることをやめられない」のだ。
今このブログを読みながら、「さあ、生きるのをやめよう」と突然思ったところで、自分の意志だけで心臓を止められる人がいるだろうか。
自分が生きる意志を持たなくても、自分の心臓は、休むことなく、血液を全身に送り続けてしまう。
自分がどんなにズルをしてサボろうとしても、心臓は絶対にズルをしないしサボらない。しかも1秒も休まず、生まれてからずっと、だ。
生きるというのは、本人の意志とは関係なく、最初からプログラムされているのだ。
つまり、生きていく上で、「生きる意味」なんていうものは、無くてもよいわけだ。
ずっと太古の時代から、命は、様々な形になって次へ次へと伝えられている。
自分が生まれてくる前から、ずっとつながっている。
そして自分が死んだ後でも、ずっとつながっていくはずだ。
仮に地球上の全生命の中の一部が「もう生きるのはやめた」と思っても、きっと他の命が,次へとつないでいく。
仮に太陽の寿命があと50億年だとしても、命は、もしかしたら太陽をも克服し、ガンダムのスペースコロニーみたいなものを作ってその中で生きていくかもしれない。
それは人類かもしれないし、人類の進化した形かもしれないし、人類ではない別のものかもしれない。
少なくとも、何かしらの形で、命はずっと続いていくのだろうと思う。
そして、自分は今、その長い命のつながりの途中にいる。
自分に生きる意志があろうとなかろうと、そういう命のつながりの途中で自分が生まれたことは間違いない。
では、「意志がなくても生きられるのだから、意志を持つのはバカバカしい」かと言えば、そうでもない。
人が何かを行う際、「意味」を見いだして行うのと、「意味」を見いださないで行うのとでは、生まれてくるエネルギーが全く違う。
「そういう決まりだから」「そういう仕組みだから」という理由だけで、意味を見いだせないような事を続けていると、誰でも精神的につらくなるはずだ。
しかし、自分がやっていることに「こういう意味がある」と思うことができれば、多少の苦しみも耐えられる。
「意味」のないことを延々と義務的にやらされていると、たいてい、人は精神が崩壊する。
かつてドイツナチスの時代に、捕虜に大きな穴を掘らせてから、またそれを埋めるという作業を延々と繰り返させるということがあったと言う。
この時の捕虜は、多くは気が狂ってしまったそうだ。
自分のやっていることが辛くても、そこに何かしらの「意味」を見いだすことができれば、人は狂うことなく続けていくことができる。そういうエネルギーが生まれてくる。
では、「生きる意味」とは何か。
それは、他人が決めることではなく、その意味を見いだそうとする意志を持った者が自由に決めて良い。
アキラが生きていた意味は何か?をアキラに聞いても答えは出ない。
アキラが生きていた意味は、それを見いだそうとする人間が決めれば良いのだ。つまり、私だ。
私にとって、アキラの存在は、大いなる癒しだった。
アキラはそのつもりはなかっただろうが、私はアキラの存在に何度も救われた。
また社会的・経済的にも、アキラには存在している意味があった。
つまり、生き物だから、必ず「食べ物」を摂取しなくてはならない。
アキラがいた分、私達家族は、アキラのための餌を買ってこなくてはならなかった。
トイレ用の砂も、定期的に買わなくてはならなかった。
それは立派な経済活動の一部となっていたと言える。
このように、何の意味もなく生きているように見えるペット動物だって、意味を見いだそうとすれば、意味が見えてくるのだ。
生きる意味は、その意味を見いだそうとしない限り見えてこない。
これを人間に当てはめてみよう。
世の中にはいろんな人がいるが、中には、「自分がいても何の意味もない」と生きる希望をなくしてしまっている人もいるだろう。
特に、今回のような大災害によって弱気になってしまっている人はこのようになりがちだ。
しかし辛い時こそ、「意味」を自分で見いだすことが重要だ。
「意味」を見いだすというのは、つまり「他者とのつながり」を見いだすことだ。
自分自身が、自分のやっていることが、自分の命が、他者に何の影響も与えずに生きることはできない。
また自分自身も、他者からの影響を受けずには生きることはできない。
この地球上にある命は、いくつもの個体に分かれて続いているわけで、1つの個体に集約されているわけではない。
複数の、いくつもの個体同士が影響を与え合って、その中で、命を次へ次へとつないでいる。
もしかしたら、自分が行っている何かが、自分にとっては意味がなくても、影響を受けた者にとっては大きな意味となるかもしれない。
自分の知らないところで、自分が死んだもっと先で、自分のやっていたことが、大きな意味となってつながっていくかもしれない。
生きるということは、そういう可能性を平等に与えられるということだ。
もし私が、子供に「人はどうして生きるの?」と聞かれたら、「人が生きるのは、そういう仕組みになっているからだよ。そして生きる意味を決めるのは、誰でもない、お前自身だよ。」と答えるだろう。
生きる意味を考えることは、自分と他者とのつながりを考えること。
自分のやっていることが、他者にどのように影響していくのか、それを考えることだ。
他人から見て「そんなの意味ない」と思われることでも、自分の中に「意味」があるならば、辛くても生きていける。
そして、意味を見いだした人はエネルギーを生み、そのエネルギーが更なる力となって、他者へと、あるいは次の命へと伝えられていくのだと思う。
生きる仕組みによって、「生きる意味」がなくても生きていける。
だけど「生きる意味」を見いだした方が、きっと自分も、次の命も、自分に影響を受けた者も、みんなエネルギーを持ちやすくなるのだろうと思う。
だから、せっかく生きているんだから、せっかく自分で意味を見いだす頭脳があるのだから、「生きる意味」を見いだしてはいかがだろうか。
自分のやっていること、やってきたことが、他者にどのような影響を与えているか、あるいは与えたか、考えてみてはいかがだろうか。
そうやって、自分で生きる意味を見いだして、破壊された街の再生に向けて、エネルギーを今も出し続けている人たちが、被災地にもたくさんいる。
そう思えば、自分にだって、「地震なんかに負けてられっか!」って思える。
ホント、負けてられねえぞ!
私の中でも、未だに不安がある。
私の住む千葉県北西部も、あの日の地震は相当強かった。怖かった。
そして、それに続いて、テレビの中には津波の映像が。
それまで自分が築き上げてきたものが、
それまで自分が大切に守ってきたものが、
為す術もなく、あっという間に失われて行った。
それを目の前で見せつけられ、途方に暮れる人々の姿がテレビに映し出された。
「人は誰でも、いつか必ず死ぬ」
「形あるものは、いつか必ず壊れる」
...なんてことは、日頃生活している時には誰もが忘れがちだ。
明日も生きていられるか分からないのに、そんな保証はないのに、我々は「明日も当たり前のように生きているはずだ」と錯覚してしまう。
それを忘れていないと、未来に希望を持って進むことができないのかもしれない。
今回の地震と津波は、我々にそのことを改めて、強烈に思い出させた。
直接被災したわけではないのに、被災地以外でも、きっとこれから先のことに不安になっている人はたくさんいるだろうと思う。
今、自分がやっていることだって、明日突然、ぶちこわされてしまうかもしれない。
自分の命だって、明日突然、終わってしまうかもしれない。
いや、明日でなくても、命はいつかは必ず終わってしまう。
では、今やっていることに、意味はあるのか?
今、生きることに、意味はあるのか?
そうやって、未来への希望を持てなくなってしまっている人もいるかもしれない。
そういう私も、地震の後、ちょっと、少しだけ、そう思ってしまった瞬間がある。
「どうして人はいつか死ぬのに、一生懸命生きるのだろうか?」
こんな問いを子供の頃に思い浮かべた人は少なくないだろう。
あるいは子供に質問されて、答えに窮した人も少なくないだろう。
私も今回の地震の後、何度もこのことについて考えた。
そして、今の自分なりの答えをまとめてみた。
以下、長くなるけど、読んでもらえたらうれしい。
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「人はなぜ生きるのか?」という問いかけに対し、それは「生きる意味」を尋ねているのか、それとも「生きる仕組み」を尋ねているのか、ということを分けて考える必要がある。
まず、「意味」と「仕組み」は違う。
どんなことにも「意味」と「仕組み」に分けて考えられる。
「仕組み」を理解したからと言って、そこに必ずしも「意味」があるとは限らない。
特に、「自然」に関することは、我々が仕組みを理解してもしなくても発生するし、続いていく。
1気圧において、水がどうして摂氏100度で沸騰するのか? そこには「仕組み」はあるかもしれないが、「意味」があるとは思えない。
つまり、「仕組み」がどうなっているかを理解することと、「意味」が何であるかを問うことは、同じことではない。
まず「生きる仕組み」について答えるならば、それは「命は生きるようにプログラムされているからだ」ということになる。
先日、流れ星を見たときにも書いたが、生き物には「細胞」があって、その中には「核」があって、その中には「染色体」があって、その中には「A、T、C、Gの4つの塩基からなるタンパク質の設計図」がある。
「A、T、C、Gの4つの塩基からなるタンパク質の設計図」は、たいていは自分の種を守り、増殖するようにとプログラムされている。
これを誰がプログラムしたのか、それは分からない。
神がいて、神の意志がこれをプログラムしたのかもしれないし、全くの偶然でそういうプログラムができあがったのかもしれない。
私は特定の宗教を信仰していないので、「神」の存在をかたくなに信じているわけではない。
しかし、いずれにせよ、命は「生きなさい」というプログラムによって、ずっと今まで続いてきた。
恐竜が絶滅するような時であっても、「命」は形を変え、環境に合わせ、ずっと次の世代へと命をつないできたのだ。
命は、自分自身に「意志」があるから生きるのではなく、最初から「生きる」ように設計されているから生きるのだ。
これが「生きる仕組み」だ。
昔、私の家では猫を飼っていた。名前はアキラだ。
アキラは、他のペット動物と同じように、毎日、寝て、起きて、餌を食べ、水を飲んで、排泄して、家の中を走り回って、飼い主と遊んで、壁とかをひっかいて、また寝て、起きて、ということを延々と繰り返していた。毎日、毎日。
何を目標として生きているわけでもない。
ただ、毎日、同じことを繰り返しているだけだった。
私はそんなアキラを見て、「こいつは、どうして生きているんだろう?」と思った。
アキラにとっては、おそらく「理由」もなければ「意味」もないのだろう。
アキラは、生き物だからこそ、最初にプログラムされた通りに「生きる」を続けていただけなのだ。
別にアキラに限らない。
生き物は「生きる意味」を持たなくても、生きていけるのだ。
いや、生きていけるのではなく、「生きることをやめられない」のだ。
今このブログを読みながら、「さあ、生きるのをやめよう」と突然思ったところで、自分の意志だけで心臓を止められる人がいるだろうか。
自分が生きる意志を持たなくても、自分の心臓は、休むことなく、血液を全身に送り続けてしまう。
自分がどんなにズルをしてサボろうとしても、心臓は絶対にズルをしないしサボらない。しかも1秒も休まず、生まれてからずっと、だ。
生きるというのは、本人の意志とは関係なく、最初からプログラムされているのだ。
つまり、生きていく上で、「生きる意味」なんていうものは、無くてもよいわけだ。
ずっと太古の時代から、命は、様々な形になって次へ次へと伝えられている。
自分が生まれてくる前から、ずっとつながっている。
そして自分が死んだ後でも、ずっとつながっていくはずだ。
仮に地球上の全生命の中の一部が「もう生きるのはやめた」と思っても、きっと他の命が,次へとつないでいく。
仮に太陽の寿命があと50億年だとしても、命は、もしかしたら太陽をも克服し、ガンダムのスペースコロニーみたいなものを作ってその中で生きていくかもしれない。
それは人類かもしれないし、人類の進化した形かもしれないし、人類ではない別のものかもしれない。
少なくとも、何かしらの形で、命はずっと続いていくのだろうと思う。
そして、自分は今、その長い命のつながりの途中にいる。
自分に生きる意志があろうとなかろうと、そういう命のつながりの途中で自分が生まれたことは間違いない。
では、「意志がなくても生きられるのだから、意志を持つのはバカバカしい」かと言えば、そうでもない。
人が何かを行う際、「意味」を見いだして行うのと、「意味」を見いださないで行うのとでは、生まれてくるエネルギーが全く違う。
「そういう決まりだから」「そういう仕組みだから」という理由だけで、意味を見いだせないような事を続けていると、誰でも精神的につらくなるはずだ。
しかし、自分がやっていることに「こういう意味がある」と思うことができれば、多少の苦しみも耐えられる。
「意味」のないことを延々と義務的にやらされていると、たいてい、人は精神が崩壊する。
かつてドイツナチスの時代に、捕虜に大きな穴を掘らせてから、またそれを埋めるという作業を延々と繰り返させるということがあったと言う。
この時の捕虜は、多くは気が狂ってしまったそうだ。
自分のやっていることが辛くても、そこに何かしらの「意味」を見いだすことができれば、人は狂うことなく続けていくことができる。そういうエネルギーが生まれてくる。
では、「生きる意味」とは何か。
それは、他人が決めることではなく、その意味を見いだそうとする意志を持った者が自由に決めて良い。
アキラが生きていた意味は何か?をアキラに聞いても答えは出ない。
アキラが生きていた意味は、それを見いだそうとする人間が決めれば良いのだ。つまり、私だ。
私にとって、アキラの存在は、大いなる癒しだった。
アキラはそのつもりはなかっただろうが、私はアキラの存在に何度も救われた。
また社会的・経済的にも、アキラには存在している意味があった。
つまり、生き物だから、必ず「食べ物」を摂取しなくてはならない。
アキラがいた分、私達家族は、アキラのための餌を買ってこなくてはならなかった。
トイレ用の砂も、定期的に買わなくてはならなかった。
それは立派な経済活動の一部となっていたと言える。
このように、何の意味もなく生きているように見えるペット動物だって、意味を見いだそうとすれば、意味が見えてくるのだ。
生きる意味は、その意味を見いだそうとしない限り見えてこない。
これを人間に当てはめてみよう。
世の中にはいろんな人がいるが、中には、「自分がいても何の意味もない」と生きる希望をなくしてしまっている人もいるだろう。
特に、今回のような大災害によって弱気になってしまっている人はこのようになりがちだ。
しかし辛い時こそ、「意味」を自分で見いだすことが重要だ。
「意味」を見いだすというのは、つまり「他者とのつながり」を見いだすことだ。
自分自身が、自分のやっていることが、自分の命が、他者に何の影響も与えずに生きることはできない。
また自分自身も、他者からの影響を受けずには生きることはできない。
この地球上にある命は、いくつもの個体に分かれて続いているわけで、1つの個体に集約されているわけではない。
複数の、いくつもの個体同士が影響を与え合って、その中で、命を次へ次へとつないでいる。
もしかしたら、自分が行っている何かが、自分にとっては意味がなくても、影響を受けた者にとっては大きな意味となるかもしれない。
自分の知らないところで、自分が死んだもっと先で、自分のやっていたことが、大きな意味となってつながっていくかもしれない。
生きるということは、そういう可能性を平等に与えられるということだ。
もし私が、子供に「人はどうして生きるの?」と聞かれたら、「人が生きるのは、そういう仕組みになっているからだよ。そして生きる意味を決めるのは、誰でもない、お前自身だよ。」と答えるだろう。
生きる意味を考えることは、自分と他者とのつながりを考えること。
自分のやっていることが、他者にどのように影響していくのか、それを考えることだ。
他人から見て「そんなの意味ない」と思われることでも、自分の中に「意味」があるならば、辛くても生きていける。
そして、意味を見いだした人はエネルギーを生み、そのエネルギーが更なる力となって、他者へと、あるいは次の命へと伝えられていくのだと思う。
生きる仕組みによって、「生きる意味」がなくても生きていける。
だけど「生きる意味」を見いだした方が、きっと自分も、次の命も、自分に影響を受けた者も、みんなエネルギーを持ちやすくなるのだろうと思う。
だから、せっかく生きているんだから、せっかく自分で意味を見いだす頭脳があるのだから、「生きる意味」を見いだしてはいかがだろうか。
自分のやっていること、やってきたことが、他者にどのような影響を与えているか、あるいは与えたか、考えてみてはいかがだろうか。
そうやって、自分で生きる意味を見いだして、破壊された街の再生に向けて、エネルギーを今も出し続けている人たちが、被災地にもたくさんいる。
そう思えば、自分にだって、「地震なんかに負けてられっか!」って思える。
ホント、負けてられねえぞ!