テレビや映画を見ていて、「別れのシーン」があると、グッとこみ上げてくる。
現実世界でもそうだ。
「人との別れ」というのは、どうして、悲しくなったり、寂しくなったり、辛くなったりするのだろう?
それは、「もう会えなくなる」という思いが、「自分がプラスに思えるモノを失う」ということを自分自身に「認識」させるからだろうと思う。
「自分がプラスに思えるモノを失う」ということは、たいてい誰にとっても悲しく、寂しく、辛いことだろう。
しかし、それを失う瞬間に、そのことを「認識」していなければ、きっと、さほど悲しくもなく、寂しくもなく、辛くもないのではないか。
例えば、中学校時代に同じクラスだった友人も、卒業の時は寂しかったけど、二十歳の成人式で再会することができた。
そして、成人式が終わった後の別れ際には、「もう二度と会えない」という認識は、ほとんどなかった。
「あ~、きっとまた会えるだろうな~。」
なんて、薄ぼんやり、再会の可能性をイメージしながら、その時は別れた。
しかし、それから20年近くの年月が経ち、もはや連絡先も分からなくなってしまったその友人には、もう会うことはないかもしれない。
その友人にもう会えないということを「認識」しないで何年も過ごしてきたくせに、「もう会えないかもしれない」と「認識」したとたん、寂しい気持ちになる。
人との死別も同じだ。
悲しいとか寂しいとか辛いとか感じるのは、その人が死んだ時ではなく、そのことを自分が「認識」した時だ。
私の大学時代の友人で、30歳の若さで亡くなった人がいる。
私が彼の死を知らされたのは、私が35歳の時だ。
しばらく連絡を取っていなかった仲間の訃報を別の友人からの電話で知らされたとき、私は激しく嗚咽した。
あふれてくる涙を止めることはできなかった。
でも、その友人が亡くなったのは、その電話の5年も前のことだった。
私は友人が亡くなった時に悲しくなって寂しくなって辛くなったのではない。
「彼にはもう会えない」と「認識」した時に、悲しくなり、寂しくなり、辛くなったのだ。
そう考えると、「別れ」を「別れ」と認識しないまま、しばらく連絡も取っていない人がたくさんいる。
たまに年賀状などをやり取りするくらいで、ろくに話をしたりもしない。
きっといつか会える、と思っていながら、もしかしたら一生会わないままの人もいることだろう。
それは、「死別」するのと、何も違わない。
ただ、自分が「もう会えない」と「認識」するか、しないかだけの違い。
「自分がプラスに思えるモノを失う」ということを「認識」することが、自分を悲しくさせたり、寂しくさせたり、辛くさせたりする。
ならば、その逆もまたあり得るということだ。
つまり、「自分がプラスに思えるモノ」を思い浮かべ、それが「自分の中にある」とか「自分の近くにある」ということを「認識」すれば、その瞬間に、自分は、楽しくて、嬉しくて、幸せな気分になれる。
「不幸」も「幸福」も、すべて、自分の「認識」しだいだな、と思う。