「考える」ことは「美しい」 | ~俺もないけど心配するな~

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デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ


常日頃から私は生徒達に「頭を使おう」「考えよう」と言っている。そして、自分自身もそうするように努めている。

これは私の主観だが、「考える」ということは「美しい」ことだと思う。

実はずいぶん昔からこういう感覚が私にはあった。

「考える」のが「美しい」というのは、人に言うのはちょっと気恥ずかしいという感じもするが、とにかくそう思うのだ。

どうしてそう思うのか考えてみた。


そもそも人が「美しい」と感じるものの共通点とは何だろう?

「均整のとれたもの」「バランスの良いもの」だろうか。

「光を放っているもの」「輝いているもの」「光沢のあるもの」もそうかもしれない。

あるいは「直線的なもの」「なめらかな曲線を描くもの」「表面に凹凸のないもの」も美しいと言える。

これらは全て、人に美しさを感じさせる「要素」だ。

こういう「要素」が人に認識されると「美しさ」が認められる。

「美しい」というのは英語では、ご存知の通り「beautiful」と表現される。

これは「beauty(美)+full(いっぱい)」ということだ。

つまり、「美の要素がいっぱい」というのが「beautiful」の意味ということになる。

美しいと感じさせる要素というのは、個人の主観によって様々だ。

あるものを見て美しいと感じる人とそうでない人に分かれるのは、個人の主観がみんな違うからだ。

しかし、そうは言っても、たいていの人が「美しい」と感じる要素もある。

晴れた日の夕焼けとか、上質な宝石とか、一般に「誰もが美しいと認めるもの」もある。

かと思えば、一般に少数派の一部の人によってのみ「美しい」と認められる場合もある。

美女と野獣のようなカップル(あるいはその逆)が道を歩いているのを見て、半ば嫉妬混じりに「どーしてあんな男にあんな美女が! ちくしょー!」なんて思うこともたまにある(笑)。

おそらく、「美しい」と感じさせる要素をたくさん持っているものは、それだけ多くの人に「美しさ」を認めてもらいやすいのだろう。

逆に「美しさ」の要素が少なく、一般に美しいと認められないものでも、「美しさ」の要素を1つでも見つけられた人にとっては、それは「美しい」のだろう。



さて、話がそれたが、そういう「美しさ」の要素の1つとして、「無駄がない」というものも挙げられる。

少し前だが、世界陸上を見ていて、一流のアスリート達の無駄のない肉体、無駄のない洗練された動きに私は「美しさ」を感じた。

こういう「無駄がない」ものにも、人は「美しさ」を感じる。

これが「考える」ことが「美しい」ということにつながる。

なぜなら、おそらく、「考える」の先に「無駄を無くす」という効果が期待されるからだろう。

仕事においても、完成度が高く、スマートで、無駄なく完了するものはたいてい「考える」という過程を経るものだ。

誰かと一緒に仕事をしていると、「無駄な体力」「無駄な時間」「無駄なコスト」を省いている人には「美しさ」を感じる。

そういう人は、たいてい行動を起こす前に「考える」ということをしているものだ。

「考える」の先に「美しさ」がある。
だから、私は「考える」ことは「美しい」と思うのだ。