1980年~1983年 松本香時代のプロレスはどのようなものだったのか | 時系列でみる! 極悪同盟 ダンプ松本 ファンブログ

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極悪同盟(特にダンプ松本さん)のプロレスを時系列で整理します。思い入れのある雑誌処分のためブログに残して廃棄します。「テーマ別」で時系列で閲覧することができます。妄想で書くこともしばしばですが1年(+α)かけてやる予定です

1980年の入門から1983年の4年間の松本香時代の試合を見て、それほどプロレスに詳しくない私が、生意気にも少し感想を書きたいと思います。

 

1980年

プロテスト合格~新人王トーナメント

以下が代表的な試合ですね。

 

 

 

1980年は松本香はようやく念願のプロレスラーとしてデビューしました。

すでに75kg(?)の体重があり、レスラーとしては横方向に大きくて(失礼ですが)、それまで日本人ではあまりいない体型だったと思います。昔のレスラー、例えばビューティペアもブラックペアも、みんな筋肉質な人ばかりだと思います。女金時と言われた「ジャンボ宮本」は似たような体型ですが時代が古く、周りの見る目も違っているので比較が難しいです。

松本のような太った選手が少なかった原因は、基本運動(腕立てや腹筋や持久走)が出来ないので、オーディションで落選していたんだと思います。ではなぜ松本が合格したのかというと、後年にご本人が「オーディションに合格するには目立つ、ハキハキすること」と話しています。こんなことで合格するのかと不思議に思いますが、興行において目立つ才能は重視されたのだと思います。松本はこういう点がちゃっかりしているというか、頭が良いのです。また、1980年の2グループ体制の発足があり、それでプロテストに合格できたのは幸運でした。もちろん本人が宣伝カーを運転してまでプロレスにしがみついたことも大きいです。

 

(1980/5/10 大宮スケートセンターでのプロテスト合格風景 左から松本香、大森ゆかり、長与千種、坂本和恵)

 

ちなみにダンプのオーディション合格へのエピソードがあります。

週刊明星 1986/3/6より-------------------------------

昭和52年に高校2年生のときに一度オーディションに落ちているのに、翌年再び挑戦した。「うさぎ跳びとか腹筋とかで基礎体力を見るんです。初めて受けたとき、自分は何もできなかったから、第一次予選で落ちました。で、次の1年まで何か特訓したかっていうと、何もやんなかった。どうすりゃオーディションに受かるか、分かったから。目立てばいいんです。いくら体力バッチリでもおとなしいのは落ちている。返事はハキハキとでっかい声でね。『私にはこれしかありません!!』なんてね。これで合格(笑)」

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プロレスは格闘ですから、勝負になれば体重があることと、身長が高いことは絶対に有利なのですが、同時に興行(エンターテイメント)であるため、この時代は華麗に動く、魅せることが重要視されていたのかなと思います。

 

松本は太っていることが特徴でしたが、それが故に腕立て伏せやマラソンが苦手で、先輩からの格好のイジメの対象となってしまいます。スチュワーデス物語のように「お前はドジでノロマな亀!!」といわんばかりの仕打ちを受け、練習もシゴかれます。先輩からみると、「よくこんな何もできない選手が入ってきたな」という感じだったのでしょう。腕立て伏せは体重があれば難しいですし、そりゃムリってもんです。人には人それぞれの特徴があるのです。しかし全日本女子プロレスではそんなことは許されることではなかったようです。

プロテストに受かるまでは、本庄ゆかり(後のクレーン・ユウ)と共に、毎日水を飲むことも許されずに走らされてぶっ倒れ、泣いてばかりだったというエピソードがあります。松本は松本なりに頑張ったのですが、周りにはそれが頑張っているようには見えなかったようです。

エリートとして期待されていた大森ゆかりや、ライオネス飛鳥がほとんどイジメについて言及されていないことからも容易に想像できます。

後にジャガー横田やデビル雅美は「基礎運動能力のない松本とユウはレスラーとはいえない」と厳しい発言もしています。ナンシー久美をはじめ、ベビーフェイスの先輩からシゴかれる"耐え"の時期が続きます。多くの同期がイジメで辞めていく中、松本はこの1年を泣きながら、「ナンシー久美をぶっ殺す」と心に秘めて、なんとか耐え抜きます。多くの同期が辞める中、1年目は辞めなかったこと、これが凄いことです。この最悪環境下で泣きながら耐えた地道な修行は、やがて反骨信となり、後にちょっとやそっとの事では、決して動じないような強靭な精神力が培われたのではないかと思います。

 

女子プロレス物語より-----------------------------------------

55年組の第四期生として入門した飛鳥、特別推薦の千種と大森、プロテストに受かった松本、ユウは新体制で別々の道を行く。

ジャッキー佐藤が率いるA班に、横田、飛鳥、大森らが入った。ナンシー久美が長となったB班には天神マサミからデビル雅美に改名したばかりのデビル、それに千種、松本、ユウがいた。このA班、B班の色分けははっきりしていた。千種が言う。「A班は女子プロマットの主導権を握るだろう有望選手が集まり、私たちB班はどちらかというと、落ちこぼれ組でしたからね」と。それだけにB班の落ちこぼれ選手の反発はすごかった。毎日旅先で「A班に負けるな!」と厳しい練習が続いたのである。「百発のボディースラムなんてしょっちゅう。毎日体がガタガタでしたよ」と千種。スリムな千種にはかなりこたえたようだ。この厳しい練習に、新人たちのほとんどが耐えきれなかった。結局オーディション合格9名のうち最後まで残ったのは飛鳥ひとり。推薦組は大森と千種。それと苦労してレスラーの切符を掴んだ松本、ユウだった。わずか一年で新人は脱落し、二班体制は興行の急増で中身が薄くなり、新鮮味を失った。約一年で解散に終わった。一方で厳しい特訓でふるいにかけられた選手に、筋金入りのプロ根性と技術をつけさせた。

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上記に記載されているナンシー久美を長としたB班の厳しい練習こそ、マンガ「ダンプ・ザ・ヒール」の第一巻に登場するイジメのようなシゴキだと思われます。

 

「おかあちゃん」より------------------------------------------

女子プロレスに入って5年間は鳴かず飛ばずだった。同期の仲間たちは次々とスターになっていった。それ中でも私が一番出世が遅れていた。そのくせ体重だけは増えていつしか100kgの大台を超えた。

私たちは年間300本の地方巡業に出た。旅から旅へ、来る日も来る日も旅暮らしだった。時々、自分がどこにいるのかすら分からなかった。今日が何日で何曜日かさえも。毎日がそれの繰り返しだった。リングの上で体をいためる。体にアザや傷ができる。私たちのアザや傷ができる度にお客様は歓声をあげる。それが私たちの商売なのだ。そう気づいたときは腹が据わった。

夜、体が痛い。しかし痛いからといって、眠れないことなんてことはない。寝床に入れはすぐに寝ちゃう。寝ないことには体がもたないのだから。寝るときだけが唯一の自分の時間だ。先輩にイジメられて、"ちきしょう!"という思いも、布団に入るやガァーッと眠ってしまう。そして朝。"どうしてこんなに夜が短いのだろう" 一瞬、"また朝か、いやだな"と思う。だが、そう思うのもつかの間、早く着替えをして先輩のところへ行かなければ怒られてしまう。

新人時代、がまんして私は耐えていた。上の先輩連中がいる以上、どんなにがんばっても下は無理だ。よし、長期戦にもちこんでやろう。上がやめるのを待とう。

そしてどうんなにつらいことがあっても最後までやめないようにしよう。最後まで残っていれば、いつか必ずチャンスが回ってくる・・。

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苦しい新人時代が続きます。ただ、毎日のシゴキと練習により、動画の試合を見てもわかるように、1980年11月の坂本和恵戦ではきちんとお客様の前で試合ができるようになっています。松本は体重があるため、練習はダメだったのでしょうが、この試練を乗り越えて、いっぱしのレスラーとして成長したのだと思います。本番の抑え込みになると体重を活かして有利に試合を進められました。また彼女なりの努力をして、レスラーとしてやっていける体づくりは出来てきています。努力の賜物だと思います。

 

憧れのジャッキー佐藤について--- 週間明星1985/7/25より---------------

プロテストに受かって、憧れのジャッキー佐藤さんの後輩になれても、あの人は遠い存在で口もきけなかった。同じバスに乗って「おはようございます」と挨拶しても返事してもらえない。ジャッキーさんが眠っていると、おしゃべりもできないし緊張の連続。お菓子も食べられない雰囲気で。だけどずっと憧れていたジャッキーさんが着替えてると知らないうちにジッと見ちゃうんです。「なんか用?」とか言われると「いや、別に・・」となんて下向いて、ジロッと見せれるとドキドキしたりしてね。ある日、自分が着ていたTシャツ、短パン、ハイソックスが、たまたまジャッキーさんのと同じようなのになっちゃって。「私のマネしないでくれ」って言われました。あれ、ものすごいショックだった・・。そのうち少しは言葉交わしたりするようになったけど、ジャッキーさんは遠い存在のまま引退しちゃいました」

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(1980年のポスター)

 

↓イジメについてはこちらで詳しく語られています。

 

 

 

 

1981年

 

 

1981年の試合動画が見つかりません。2グループ制が廃止され、1つに統合されたために選手が余剰になりました。そうなると試合に出られる選手は限られ、松本の試合もめっきり少なくなったのだと思います。このとき、真っ先にリストラ候補にあがったのは、松本と長与でした。松本は太っていて特徴はあるが、華麗な決め技がなくて対戦相手側からも、やりにくい。「おまえなんかやめてしまえ」と毎日言われ、リストラ候補になる中、当時の松永高司社長だけは、「あいつはいつか芽がでるかもしれない」と松本を手元に置いておきました。

このときの社長には、一体何が見えていたのでしょうか。

(ちなみに、その社長も松本には期待していなかったらしく、インタビューによっては「松本は居てもいなくてもどうでもいい選手だった。練習嫌いの上に恐がりで、その上泣き虫。体を動かすと苦しいからといっては泣き、練習が怖いから朝ごはんが食べられないといっては泣き・・売り出したのは58年にライオネス飛鳥を下して全日本王座のチャンピオンになってから」とも話している)

 

 

1982年

 

1982年の試合です。

 

 

1982年になると後輩も入り、イジメは少なくなった思われます。先輩も引退をし始め、徐々に出場する試合も増え始めます。しかし女子プロレスはテレビ放送も不定期になり、下火となります。お客様が閑散としていた頃です。1982年になると松本の試合も、極わずかですが放送されています。ずんぐりと太っていたため、他の選手とは明らかに違う容姿で、志生野アナからは「女金時」と呼ばれて、それなりに目を引くレスラーになりました。

しかし、お客様が閑散としたリングは、松本が思っていたビューティペア時代の華やかさとは全く違っていました。プロレスラーに成れたことに一旦は満足してしまったのか、あまりやる気も出なかったようです。自分のキャラクターを活かすために、ヒール志望ということでデビル軍団に入りますが、まだ試合についていくだけで精いっぱいという感じだったのかなと思います。

こんなエピソードもあります。

 

週刊明星(1986.3.6号)より-------------------------------------

女子プロの寮では大森ゆかりと同室だった。まず同期の新人でライオネス飛鳥が頭角を現した。すぐに大森が抜き返した。そんな同期生たちの火花を散らすようなライバル合戦を横目に、ダンプは無気力な前座の試合を繰り返していた。

『長与千種もオチコボレだった。二人だけ旅に連れて行ってもらえなくて事務所の留守番をさせられました。本当は練習をすれば良かったんだけど「いやー、残されちゃったね。みんないないから遊ぼう。何しようか」なんてね。練習しても無駄だと思ってたから。実力も必要だけど、女子プロレスってチャンスが回ってこなきゃダメです。そのチャンスが来るまで待ちきれないでみんなやめちゃう。13人いた同期で残ったのは4人ですからね。あんな辛い思いをしたのに、辛いままやめていく。いい思いをする前にね』

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会社は松本を「将来はジャンボ宮本のようなベビーフェイスにしたい」と考えていたようです。お客様がオジサンの場合は、愛嬌がある太めのベビーフェイスでも通用したかもしれません。しかし、松本は「ミーハーファンには自分は絶対にウケない」と考えており、ヒールを目指したところは会社よりも時代の先を読む力があったと思います。

 

(1982年のポスター)

 

 

1983年

 

1983年の試合です。

 


 

ここでまたエピソードを記載します。

週刊明星(1986.3.6号)より-------------------------------------

『他の選手が上に伸びていっても悔しいっていう気はしなかったですね。「あ、そう。良かったね」ってぐらいの気持ち。オチコボレの仲間の千種までがクラッシュになって上がっていって、とうとう自分一人になっちゃった。「あっ、ついに千種もやる気になったのか」なんて、それでも悔しさはなかった』どこか迫力のない前座の悪役のまま、ダンプはずるずると4年間を過ごした。

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1983年になると、1月にライオネス飛鳥から全日本王座を奪取し、会社もようやくプッシュを始めます(この試合はライオネス飛鳥がヒザを痛めていたため、そこを攻めた松本も凄いが、運が良かった面がある)。その後6月まではタイトルを保持したので、実力的には徐々につき始めています。

ただ、やはり悪役としてはパッとしませんし、どうしてもやる気も出ず、前座とメインを行ったり来たりという状態だったようです。55年組で、1983年の後半になっても、前座に出されていたレスラーは松本だけだったのではないでしょうか。本庄ゆかり(クレーン)も似たような感じですが、松本よりはメインよりの試合をしていたと思います。

 

1983年には、レスラー"松本香"のスタイルがかなり出来上がったと思います。

技は残念ながら少なく、華麗なものはありません。技としてはボディアタック(体当たり)、2段ロープからのヒップドロップ、バックフリップ、そして技の少なさをカバーするための反則技です。

マスクド・ユウはトップロープからの飛び技がありましたが、松本にはありません。おそらく体重により、トップロープから落ちることによるケガを恐れていたのと、単純に飛ぶのが怖かったのかと思います。しかも連携技も乏しく、デビル雅美のパートナーとしても不十分とされてしまったようです。

ただ1983年の後半になると、新人の頃から使っていたラリアートが、ようやく威力を持った完成形に近づきます。このラリアートは後に松本の必殺技となります。

 

これだけ技の少ない選手なので、当然メインにもなかなか出してもらえません。だから全くダメ、というわけでもありません。松本香のレスリングは、余興としては面白いレスリングで、意外と人気があったようなのです。

163cm、100kgに近い容姿、"コノヤロー"という元気な声と、思わず笑ってしまうようなずんぐりとした体型で、前座としては面白いプロレスを展開します。体重が重いため、軽い相手はひとひねりしてしまい、さらにヒールなので相手の弱点を攻めてワルいことをしながら、かなり試合が組み立てられるようになります。

 

ただしヒールではあるが、"松本香"という可愛いリングネームと太めな体型で、お客様から親近感を持たれてしまいます。さらに非常に元気が良い声、愛嬌のあるアピール、えくぼがあってニコニコしているように見える顔だち、元気娘という感じで、ヒールに見えません。

ただ、私はこの"親近感のあるヒール"というのは、松本の大きな特徴であったとも思います。むしろ、全日本女子プロレスを通じて、志生野アナに「ヒールなんですが愛嬌があります」と言われたのは松本が最初で最後、唯一無二の個性だったと思います。(後年のアジャや井上京子も愛嬌があったが、マイクアピールタイムがありましたし、時代的に"ヒール=陰惨で笑わない"という決まり事がなくなった後ですし、そもそもその流れを作ったのもダンプ松本ですし・・)

 

真面目にヒールをやろうとして、親近感が出てしまうレスラーなどおそらく他にはいなかったと思います。(バカにしているのではありません)

どうしてそうなったのかというと、松本が持つ天性の明るさ、目立ちたがり屋から来るものではないかと思います。"ダンプ松本"に改名後、徹底的な悪に徹しますが、それでもクラッシュギャルズの信者以外からは、なぜか歓迎されます。"ダンプ"という一つのキャラクターが出来上がります。リング内では悪いことばかりして石を投げられるが、リング外ではコミカルな体型と露悪ゆえの珍しさの人気がでます。放送コードギリギリの暴力キャラ、いままでにないキャラクターです。

 

これは"ダンプ松本"に改名して、どんなに陰惨な攻撃をしても、リング外では元の性格である"親近感"が残っていたのだと思います。実際にティーン誌ではダンプはクラッシュファンに嫌われているはずなのに、紙面ではお笑い担当として大活躍です。"絵になる"のです。

後にも先にも、彼女のようなメディアの取り上げられ方をされたプロレスラーはいないと思います。つまり、ダンプ松本にリングネームを変更した以後は、試合では恐ろしいヒールになりましたが、全国規模の"愛嬌のあるヒール"へとさらに広がったと思います。(1984年から1985年までは単なる悪い奴に思われていたと思いますが、たこ焼きラーメンのCMあたりで流れが変わったと思います)

 

後年にブル中野が「獄門党」を立ち上げたときに、やはり同じような凶器攻撃を初期はしていました。しかし、志生野アナからは「どうも獄門党は陰惨さが目立ちます。ダンプ松本のときは、同じことをしていても、どことなく憎めないところがあったんですけどね」と話していたことからも分かります。

 

(1983年のポスター)

 

 

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さて、次に1985年に本人が語られているインタビューを見てみます。なぜこの4年間は芽が出なかったのかを本人が分析されています。ちょっと長いですが引用してみます。

特に重要な部分を赤くしておきます。

 

(新人時代の松本 神聖クラッシュギャルズより)

 

ダンプ4年のまわり道(1985年 神聖クラッシュギャルズより)----------------------------

「"ダンプ松本"に改名するまではほとんど落ちこぼれでしたよ」 

「ナッちゃん(大森ゆかり)は恵まれてどんどんやってたけど、千種と私は旅にもつれてってもらえなかったし、試合もなくてしょっちゅう寮に残ってました」 

そもそもスタートからつまづいている。高校2年生のときにプロレス入りを決意、高校3年生のときにやっとオーディションに合格。しかしプロテストは3回も不合格。4回目でやっと合格。その間、女子プロレスに"入社"して営業の仕事もやった。「1か月だけだけど、宣伝カーで回りながら練習してた」 それに「ジャッキーさんのそばにいたい」と思って入門したのに、すぐに悪役に。ここですぐに悪役に徹してきれていれば、もっと早くあかびあがれていたかもしれない。デビル雅美がまだ悪役で、本名の松本香で試合をしていたダンプは、大きな体が幸いして、それなりに目をひいた。

「"松本香"のころは
悪役に徹しきれずに遠慮のしっぱなし。負けてばかりいても別に気にならなかった。よく欲がないって怒られてました。全然なかったもん。そんなに相手が勝ちたいなら、勝たせてやればいいと思ってた。やる気がないって思われてました。なかったですけどね

その理由をこう説明する。「大きなチャンスもなかったし、燃えるような試合もないし、客もいないし、今みたいな活気も全然なかったから、なんとなく試合をしているだけでしたね」

同じように恵まれないスタートを切り、回り道をしてクラッシュ・ギャルズにたどりついた長与千種は、回り道を"糧"にしてきた。ダンプはこの時代のことを今でも悔やんでいる。

「"松本香"のころは目的もなにもなかった。今になって考えると、自分の気持ちの持ち方が悪かったんだなぁって思いますよ。早いうちに今みたいな気持ちが持てたら、落ちこぼれが長く続かずに済んだのに・・・」

入門時73kg、
以来一度も痩せることなく、その後も女子プロNo.1の重量を誇るこの重量がダンプのプロレスに大きな幸いとなっている。しかし、長いこと、逆に災いとなってもきた。

「年中、ヒマさえあれば辞めたいと思っていた」という新人時代もそう。

「練習が今とは比べ物にならないくらいキツくて、体が大きいから練習についていけないのね。腕立て伏せ50回やれって言われても20回くらいしかできないし。それで余計にシゴかれるので、よく泣いてました」

 

この時期を「イヤな思いだけしてやめたら、何のためにやってきたか分からない。1回くらいはいい思いがしたい」と乗り切った後、体の大きな人独特の、あせらず、さわがず、さらに長くのんびりとした考え方が、ある意味ではさらに長く続く落ちこぼれの時期を招く。

 

「ジャガーさんに言われたの。悪い時があればいい時がある。いい時があれば悪い時がある。順番なんだって。あ、そうなんだ。いつか順番が回ってくるから、それまで待っていようって感じでした

 

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私じゃダメかい より --------------------------------------------

「選手なんかヤメちゃおう」って思ったことは数えきれないほどあった。特に下積みの頃は一日に何回となくそればっかり考えていた。社長からも「お前は道を間違えたんじゃないか。考え直した方がいい」って再三言われた。でもヤメたいという理由をいちいち並べてみても、自分を納得させられる決定的な理由ではなかった。

「やめるのはいつでもできる」 自分が選んだ運命の糸に先に、何があるのかも見届けたかった。だからじっくりとチャンスが来るのを待っていた。選手の定年は25歳。スター選手だってそんなに長くやってられない。そうなれば自分にも出番は必ず回ってくるはず。そういう計算もしていた。

5年目のとき自分が思っていたとおり、会社がクラッシュギャルズの売り込みにかかった。この売り込みは派手だった。

「いまがチャンス!」 この波にのって、クラッシュ・ギャルズを目いっぱい引き立てる悪役に徹しようと思った。これが結果的には幸運を呼び寄せた。

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(下積み時代の松本)

 

●時代の波が来るまで待つ

 

本人が呑気な性格だったのか、時代を読んでいたのか? 

どちらか分かりませんが、私は時代の波を読んでいたとように感じます。

 

女子プロレスは周期的な人気がありました。最初は1975年頃のマッハ文朱の大ブーム、次は1977年から1979年にかけてにビューティ・ペアブームです。1980年に松本がデビューしたころは、女子プロレスが下火となりました。

松本は学生時代にマッハ文朱に心を動かされ、ビューティ・ペアの親衛隊になるくらいの熱狂者だったといいますから、女子プロレスが爆発的ブームになったときの"熱"を知っていました。

松本が入門して以降、会場に"熱"はなくなりました。会場にくるのは、地方の家族連れや老人、プロレスマニアな若者、レスリングとは少々違うことを期待しているオッサンたちでした。

「燃えるような試合もないし、客もいないし、今みたいな活気も全然なかった。だからやる気もなかった」

この「やる気」というのは目的のことだと思います。プロレスは好きだけど、何を目指しているのか、明確な目標が無かったのではないでしょうか。本当にやる気がないのなら辞めていますし、試合中にケガをしてしまいます。

松本は周期的にスターが現れて大ブームになることを、予見していたように見えます。

それが「いつか順番が回ってくるから、それまで待っていようって感じでした」と話していることからも伺えます。

意外と冷静に世の中を見ているといえます。25歳定年のある全女において、すでに年齢はかなり上。それでも焦ることなく「待つ」ことができるのも才能だと思います。

私が思うに、ダンプ松本は当時のメンバーの中で一番頭の良いレスラーであったと思います。

後年の色々な出版物を読んでも、才女であることは明白です。
 

(4歳年下の長与千種は、前に進めない苦悩から体中に湿疹ができたりと、「待つ」能力はなかったと思います。ちなみに社会で「待つ」とか「スルーする」という能力は、学校では教えてくれませんが、かなり重要な能力です)

 

(思いっきりプロレスより。左に松本香(寝ぼけてる?)、上にライオネス飛鳥、右に本庄ゆかり(クレーン・ユウ))

 

●精神力の強さ

 

全日本女子プロレスは先輩からの"イジメ"で有名です。華の昭和55年組は史上最も多い11名(推薦いれて13名?)の同期合格者がいますが、辞めていく人間もかなり多いです。それは想像と違う世界だったり、先輩からのイジメだったり、ケガだったり、練習がキツいと感じたりと色々とだと聞いています。その中でも松本は格好のイジメの対象となっていたことで有名ですが、クラッシュ全盛期まで残ったのは、ライオネス飛鳥、大森ゆかり、長与千種、松本香、本庄ゆかり(クレーン)の5名です。

とにかく異常な縦社会と厳しい練習をなんとか乗り越え、イジメにも耐えて、前述した時代の流れを読む能力によって、最後の最後まで夢が叶うか見極めようとした精神力に脱帽します。


 

●太ることに重点を置いた

 

松本香時代の試合を見ていると、主な得意技は全身で相手にぶつかるボディアタック、サーブボードストレッチ、バックフリップ、そしてラリアートかなと思います。同期の大森ゆかりが使う2段ロープから派手な担ぎ技や、トップロープからのダイビングニードロップといった自爆系の花形の技はありません。

 

では魅せる技がない分、何に強さを求めていたのかというと「体重」と「パワー」だと思います。プロレスは体重による階級がない無差別級の試合ですから、50kgの人と100kgの人が対戦したら、重いほうが圧倒的に有利です(とはいえ興行なので実際は有利/不利という言い方は間違っていますが・・)。松本は自分の個性として、体重を4年間で100kgにしています。太腿の直径は84cmにもなりました。

なぜこんなに太ったのでしょうか。太るほど腕立てや腹筋、マラソンなどの基礎運動が厳しくなります。それに当時はジャガー横田のように、スリムなレスラーが主流だったはずです。

太ったことについて、ご本人の著書にありますので抜粋してみます。

 

「長女はつらいよ」より--------------------------------------------

私は生まれてこのかた、痩せてた時がない。なにしろお母ちゃんのお腹を飛び出した途端、「この子は大きくなりますよ」ってお医者さんに太鼓判を押されていたくらいだもの。

そのとおりに大きくなるにつれて食欲がモリモリ湧いてきて、子供時代はいつもお腹をすかせて、在ればあるだけよく食べていた。おかげで18歳で女子プロに入ったときは体重が70キロにもなっていた。

それで社長も私を太めで売り出そうと思ったみたい。

「おまえは、とにかく練習なんかしなくていいから食べてろ。目標は100キロだ!」

って、こういわれたんだよ。今思うと、若い女の子をつかまえて凄いこと言ってるなって驚くけど、そのときは素直に喜んでいたね。辛い練習をしないで食べることだけ考えてればいいなんて、こんな幸せなことはないって思ったんだもの。

「丼物二杯にラーメン」

一回の食事で軽くそのくらいは食べていたかな。そしたら、もともと太る体質だったみたいで、本当に簡単に太っちゃった。

そしてダンプ松本としてデビューする頃には、目標の100キロを超えるまでになっていた。そういえば、みんなからは「ゾウアザラシ」とか「カバ」とかって、からかわれていたっけ。

でもデブの割りにはよく動けたと思う。やっぱり試合をこなしながら太っていったから、筋肉になってついたみたいだね。もし普通の人が100キロになったら、ノロノロとしか動くことができないはずだもの。そういえば、テレビ番組で私の背中の脂肪を機械でつまんで測ってもらったことがあるけど、脂肪ゼロっていわれたんで、自分でもびっくりしたよ。それだけよく食べて動いたって証拠だね。まぁデブになったおかげで、悪役のイメージぴったりの体格で迫力満点になれたし、デブだと敵に技をかけようとしてもかからないから、試合展開でも有利だった。だから悪役ダンプ松本としては、デブになって本当に良かったと思ってる。

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会社の命令で太ったようです。これを推奨する会社も会社ですが、当時日本人で100kgもある大型レスラーはいなかったので、会社で巨漢のレスラーを育ててどうなるのかを模索していた可能性があります。

さらに上記でも書かれていますが、デブになることで、松本自身の自己防衛にもなりました。松本は「でっかい外人と試合するのが怖い」と話をしていましたから、体重を増やすことで、技がなくとも試合の立ち位置を有利にし、苦手な外人レスラーを克服しようと考えていたのかもしれません。

 

ちなみに「太るのなんてメシをたくさん食べて寝てればよいだけ」という人もいるかもしれませんが、太るのには「太る才能」が必要だと思います。生まれつき体力があり、内臓も強くないと太れません。ブル中野が100kgを超えるためにステロイドを注射したことは有名ですが、100kgを超えて、なお「動けるデブ」であるには天賦の才が必要です。

松本はこの恵まれた資質を、4年の下積み時代に意図的に伸ばしています。

 

普通に考えると、体重だけ増えて技がないレスラーは、ダメレスラーに感じますが、これが時代にマッチングします。ダンプ松本に改名したあと、体重100kgの大女、反社会的なペインティング、ロックスターのような服装、何もかもが新鮮でした(聖飢魔Ⅱが有名になる前)。まるで社会に反旗を翻したような悪役として、1984年の末には「ダンプ松本」の名はあっという間に世間で知られるトップスターに躍り出ます。

このすべてが合致した結果は、偶然という一言で済ませて良いのでしょうか。

もし、これが会社や本人がある程度想像していた、時代を読んだ形なのだとしたら、恐ろしい才能と言えます。

 

(ちなみに空中技が出来ないわけではありません。ドロップキックもたまにしますし、後年には延髄切りなどの華麗な技も出しています)

 

(さらに体重を増やすのを強さにするのは安直と考えもありますが、元祖"動けるデブ"としての女子レスラー(100kg超え)はダンプ松本だと思いますし、ブル中野やアジャコングも、体重を増やして強くなっていったので、体重での強さを否定するのは他のレスラーも否定することになってしまうと思います。その点、ジャガーの強さは別格だと思います)

 

 

●相手から嫌われるタイプのレスラー

 

良いことばかり書くのもアレなので、悪かった点も書こうと思います。

松本が使う技は、危険度の少ない技が多いのが特徴です。これはダンプ松本に改名してからも変わりません。

本人が「トップロープから飛び降りるのが怖い」と話していたインタビューがありました。確かに1983年までの試合を見る限り、松本がトップロープに登るのは相手を罵るときだけで、2段目からのヒップドロップはたまにやりますが、危険度の高い雪崩式や空中技のような技はありません。普通ならば華麗に飛びたいと思うでしょうが、松本には一切ありません(100kgの体重による膝や腰の故障を恐れていることもあると思います)。ジャガー以降のストロングスタイル主流時代において、トップロープから飛べないレスラーは聞いたことがありません。レスラーとしては決め技に乏しいし、致命的な欠点に見えます。

実はこれを欠点ではなく、1984年以降はだからこその長所に変えてしまうのも、松本の才気あふれる面なのですが。

 

ただこの当時は、攻めてばかりで技をウケてくれない松本に対しては、相手が長与千種であろうが、ライオネス飛鳥であろうが、多少の違いはあるものの、似たような試合内容になってしまうのが難点に見えます。正直、この頃の松本は技の受け身(綺麗に受けて、技が効いているように見える技術を指す)があまり上手とはいえないため、相手側としても思った組み立てが出来ず、苦心したと思います。うまいレスラーじゃないと、松本を相手にしたときにプロレスの"技"という面では、面白い試合にならず、松本の個性が目立ってしまうことになります。1983年の長与千種との試合を見ると感じます。だから攻防の激しい試合、受け身をしつつ、反撃に転じるというプロレスの基本的な面白さに欠けてしまい、前座に甘んじてしまったのだと思います。

 

ヒールとしての中途半端さも、悪い点であります。デビル軍団に入っても、なかなか地位が上がりませんでした。おそらくデビル雅美からは嫌われていたと思います。

松本・ユウはデビル雅美にとっては、「力が自慢だけのデブのヒール(失礼ですが)」という見方だったんじゃないかと思います。デビルの理想とするヒール像はおそらく「テクニックを兼ね備えた大人向けの妖艶なヒール」だったと思います。自身の紫の木刀や、般若の面がアダルチックであり、それを物語っています。だから将来の美魔女候補生(?)だったNo.5の山崎五紀や、細身でテクニシャンのタランチェラを可愛がったのではないかと思います。

ジャガー・デビル時代の客層が大人の男性でしたから、アダルト路線で良かったのかもしれませんが、クラッシュ時代のミーハーファン、いわゆる一般大衆が増えると、残念ながらこのアダルトの良さは理解されなかったとも思います。一般大衆にはゴレンジャーや水戸黄門のような単純なほうが良いのです。

 

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●55年組みの動向

 

下表は私が勝手に考えた55年組みの動向です。

 

            

 

主な55年組の動向をまとめてみます。

・長与千種

 ダンプと同様に落ちこぼれ組み。1980年から1981年まではおそらく灰色の日々。1982年にようやく試合にで始めるが空手殺法がプロレスで使えずに悩む。1983年1月の対ライオネス飛鳥戦のシュートスタイルで、一躍脚光を浴びます。同年8月にはクラッシュギャルズを結成して、人気がうなぎ上りになりました。

 

・ライオネス飛鳥

 55年組みの新人王、ジャッキー佐藤2世と言われて会社からも期待されます。エリートコースを歩むも、「お前の試合は面白くない」と会社から指示を受けて悩む。1983年1月の対長与千種戦のシュートスタイルに光明を見出し、同年8月にはクラッシュギャルズを結成して、人気がうなぎ上りになりました。

 

・大森ゆかり

 55年組みで最も期待される。新人トーナメントは準優勝(これは飛鳥のファン第一号が交通事故で亡くなったためのブックといわれている)。持前の明るさとルックスの良さがあり、1981年後半には新人2年目でミミ萩原のパートナーに抜擢されて、第74代WWWA世界タッグ王者となる異例の昇進。その後、ジャンボ堀と共に、タッグチーム「ダイナマイト・ギャルズ」を結成。第76代WWWA世界タッグ王者となる。ここまでは順風満帆。

 

・クレーン・ユウ(マスクド・ユウ)

 ダンプと同じくおこぼれのプロテスト合格。2班体制ではダンプと共に練習嫌いでイジメられる。1982年からはリングネームを"本庄ゆかり"から"マスクド・ユウ"に改名し、それを契機にヒールとしての才能が開花され始める。プロレスセンスを周囲に認められ、デビル軍団ではたびたび後半戦にも登場するが、必要以上な凶器攻撃でチャンスを潰すこともしばしば。しかし使い勝手の良いヒールとして、ポスト・デビル雅美と期待される。

 

・タランチェラ(伊藤浩江・ワイルド香月)

 55年組の中では初年度には目立たなかったが、2年目から大きく成長。55年組の中ではおそらく一番のプロレスセンスの持ち主。細身ながら筋肉質でパワーとテクニックを兼ね備えた将来を期待されてヒールレスラーとなる。1982年にはデビル雅美にパートナーとして大抜擢されて、ヒールのトップレベルに躍り出る。しかし1982年のヒザにケガをしてからは、ケガを誤魔化しての出場となり、精彩を欠いていく。

 

 

 

次年度以降、一気に様相が変わってきます。