Sturzkampfflugzeug

Sturzkampfflugzeug

One is not born a genius. He becomes a genius for himself.
(人は天才として生まれるのではない。自分の力で天才になるのだ。)

Amebaでブログを始めよう!

結果があって、原因がある。


生物学などを学んでいるとそれをよく感じる。

原因から結果が生まれるのではない。まず結果ありき。理由は後からついてくる。


生物の進化も、学問の探求もみんなそう。

まず真理的に結果があって、そこに見合う原因や理論が付加されていく。


それはたぶん、それが一番効率のよい方法だから。

ごちゃごちゃ考えて、理論を積み重ねて、それから行動。それでは遅すぎる。遅すぎるのだ。

まず行動。まず変化。理由は後からわかる。気づいたときに即行動に移せるということは強みであると思う。


ギャンブルにおいて、後先のことをぐだぐだ考えてちまちまと小出しに賭けるというのは素人の賭け方であると聞いたことがある。

太平洋戦争で日本軍が犯した「戦力の逐次投入」という愚こそまさにそれであると。


全てをそれに賭けて、それでダメなら大人しく引き下がる。それが玄人の賭け方。

人生もまた然り、ではないか。


やるときは思い切って。変化は大きく。

We can change. Yes, we can!

第二次世界大戦、日本にとっては「大東亜戦争」が終結してから68年が経とうとしている。
「いや、終戦記念日は8月15日だ。もう68年は経ったのだ」という人もいるだろう。だが別に間違えたわけではない。では何故「経とうとしている」と書いたか?
答えは簡単、あの戦争が終結したのは8月15日ではないからだ。世界中の教科書に、人々に訊いてみよう。彼らは皆、「第二次世界大戦が終結したのは1945年9月2日である」という答えを示すだろう。
8月15日を「終戦記念日」などと呼んで、あの日に戦争が終わったと思い込んでいるのは日本人だけなのだ。言ってみれば、あの日は玉音放送がなされ、日本の一般市民が継戦を諦めた日に過ぎないのである。
現に、前線の軍人の中には交渉決裂で戦闘が再開される可能性を考えその準備をしていた人もいるし、18日には飛来した米爆撃機を迎撃し、「第二次世界大戦最後の空戦」が行われたことも有名である。
何といっても、ソ連は中立条約を無視した上で9月4日まで進軍を続け、今なお北方領土を占領し続けているのである。戦争は終わっていなかったのだ。
世界の認識では、ミズーリ号艦上で降伏文書が調印された9月2日が戦争終結の日となっているのだ。

そもそも、「終戦記念日」という言い回しも気に食わないといえば気に食わない。タイトルにも書いたが、あれは「終戦」ではなく「敗戦」だ。敗戦の現実を受け止めて初めて将来を考えられるのではないのだろうか。


「終戦記念日」という言い回しは、降伏時の陸軍大臣が「敗戦」ではなく「終戦」にしてくれ、と言ったものらしい。「全滅」を「玉砕」、「撤退」を「転進」と言い換えて美化し、ごまかし続けていた戦時の大本営発表と何が違うというのだろうか。


日本人は、あれほどの戦争をしておきながらそれを振り返ることをあまりにも怠っている気がする。特に自分たちの世代、つまりは若い世代においては顕著である。
言っておくが、「振り返る」というのはとりあえず戦争をとにかく否定して否定して戦争に反対することでは、もちろん、ない。
「戦争はダメだ!」と一点張りで言い続けることは、「戦争しか道はない!」と盲目的に突っ走った昭和初期の世論と表裏の関係にあるだけで、本質的には同じだからである。
特に本質や理由も考えず、戦前を非難し、戦争を否定するだけの姿勢は単なる逃げでしかないと思う。ある意味、この国は現実と歴史から逃げ続けてきたのだ。
そんな報道ばかりが為され、そんな考えが何の疑問もなくまかり通ってしまうようでは、この国に未来はない。あの戦争で日本人は進歩できなかったということになる。それではあの戦争で亡くなった二百数十万人柱に申し訳が立たないだろう。


大切なのは、あの戦争を自分自身で知り、考え、感じることであると思う。
日本、そして日本人を愛するのならば、避けては通れない現実と責任がそこにはある。
少なくとも自分は、あの戦争、そしてこの国の現実と歴史から逃げたくない。



犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


彼らの生き様は、美しい。
いや、清々しいというべきだろうか。丁度良い言葉というものが見つからない。
とにかく、カッコいい。

瞬間、堀越二郎と宮崎駿の生き様が重なった。
彼のような人物だからこそ、かの生き様を描けるのだろう。
「紅の豚」から10年以上経つが、カッコいい男達が創るものは、得てしてカッコいい。
本物のカッコ良さだ。

願わくは、宮崎さんと鈴木さんの世界を、生き様を、もっともっと見たいものだ。

華々しいものでなくていい。
目の前にただただ広がるキャンバスに、あんな生き様を描くことを夢見たい。

彼の言葉を借りるならば、

「カッコいいとは、こういうことさ」

日々、周りの人間の多才さと自らのちっぽけさに驚かされる。
スポーツで全国区の人もごろごろいるし、音楽などの芸術分野も半端なレベルじゃない。

こうして見ると、「東大生は勉強しかできない」なんて平気で言う人が本気で可哀想に思えてくる。
名の知れてない大学にも優秀な人材がいるように、東大だって勉強以外もできる人ばかりなのに。

やはり何事も自分の眼で見なければ分からないということなのだろうか。
「無知は罪なり」か。

生きた魚を釣り上げに行って手ぶらで帰って来る方が、初めから魚の化石を買いに行く連中よりはるかにましだ。


けれど、掘り出した化石を集めて生きた魚を創造するのも悪くないと思いたい。