刑事弁護人の憂鬱 -24ページ目

刑事弁護人の憂鬱

日々負われる弁護士業務の備忘録、独自の見解、裁判外の弁護活動の実情、つぶやきエトセトラ

情報過多の時代と実務法曹になるために要求される能力

 

 最近、私的にロークスクール生の司法試験対策用のゼミを実施している。昔と違って、教科書、演習書の類いは、多様化し、学ぶべき情報量は膨大な感じを受けるが、法的な思考方法の修練という点では、今も昔も差異はないであろう。

まず、①基本的な法概念、知識の理解と論理思考を身につけ、②それを事例に実際にあてはめ、具体的に書面で論述する。①はまさにお勉強の世界である。②は、修練、トレーニングの世界である。アンチ予備校の政策的出発点から、ロースクールでは司法試験の受験指導は禁止の風潮があり、司法試験の実践的トレーニングと結びつく②の点が薄い印象を受ける。時間内に事案を分析し、論理的構成をたてて、わかり安く論述・表現する。それは単に判例通説の知識の羅列ではなく、法的三段論法がわかっているか、具体的に事例にあてはめることができるか、既知の問題点はもとより未知の問題点にも対応できるかという意味での法的思考方法の能力が問われる。多くの法的知識・情報をインプットし、それを単にアウトプットするだけの話しではない。そして、かつて大学関係者により多くの誤解・曲解があったような単なる受験技術ではない。分析論述技術は法的スキルの一種である。「一生法廷に立たないビジネスローヤー」に不要かつ無駄な技術というわけでもない。①だけでは実務法曹の基礎的能力としては不十分なのである。

 そして、情報過多の時代にあっては、①だけでも消化不良を起こしやすい。しかし、①は②のためにあり、覚えても使えない知識は全く無駄である。換言すれば、100の使えない知識より10の使える知識の方が有益である。すなわち、①は②と結びついていなければ何の役にもたたない。最新の理論、判例、立法を「知っている」ことよりも、基礎的な理論、確立した判例、現行法を確実に「使える」ことが重要だと言うことである。情報の海におぼれてしまっては意味がない。

 実務法曹において、単なる経営コンサルタントや交渉人や学者と異なる資質というのは、①と②が密接不可分に身についているかどうかである。これを基礎として法廷技術の修練(司法修習)が実効性をもつ。また、法ないし裁判の予測可能性が身につく。

 結論として、仮に大学院での指導がなくても、ロースクール生は②をもっともっと修練し、適切適量の知識をきちんと消化していかなければならない。

 

刑事手続きの基礎「検察審査会の強制起訴制度の行方」

 

1 本日(平成26430日)、強制起訴された柔道指導における指導者の投げ技により、重度の障害を負った業務上過失傷害事件について、長野地裁は、被告人(指導者)の過失を認め有罪判決をくだした。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140430/k10014127141000.html

 

2 これで強制起訴で有罪とされたのは2件目であり、検察の嫌疑不十分の不起訴が強制起訴された案件では初めてである。強制起訴制度に好意的なマスコミ報道からは、積極的評価がなされている。http://mainichi.jp/select/news/20140501k0000m040036000c.html

 

3 被害者は「頭部に加わる回転加速度によって脳内の静脈が切れ、急性硬膜下血腫を発症した。」と裁判所は認定している。

頭部を打ったわけではないが、強度な投げ技がなされた事実は確かなことであるにもかかわらず、なぜ検察は2度も不起訴としたのか。「加速度回転による静脈破裂」という因果関係の基本的部分が予見不可能とみたのか、頭部をぶつけないようにする態様に客観的不注意(結果回避義務)はないとみたのであろうか。

しかし、投げ技による「加速度回転による静脈破裂」が柔道指導者一般に知られていないわけではなかったこと、近時は赤ん坊の揺さぶりによる脳しんとうの傷害事件報道からも強い揺さぶりが脳に何らかの傷害を負わす可能性があることが一般人の観点からも予見不可能ではないこと、柔道指導者という被告人の立場から、より慎重な対応が求められる(特に小学生以下の年少者、初心者に対してはなおさらである)から、要求される結果回避義務は力加減などに対する高度な配慮が要求されることなどからすると、過失ありとの判断も不合理ではないように思われる。但し、オリジナル証拠を見ていないので、証拠評価・事実認定についてはなお留保するが…

 

4 結局、検察官の不起訴判断が正しかったのかどうかは、不起訴時の証拠と本件事件の判決時の証拠が同じかどうか、同じであるとすると検察官と検察審査会・裁判所の判断の差異は証拠評価の差異ということになり、裁判所の判断が確定すると、結果的に検察の不起訴判断(証拠評価)は間違っていたということになる。すなわち、「市民感覚」の勝利=検察官の不適際ということになる。

 

5 強制起訴制度について、無罪率が高く、被告人の負担からも見直しを求める批判的見解がある一方、一般市民によって構成された検察審査会の「市民感覚」による検察官の不当な不起訴を防止する制度趣旨を強調し肯定的意見も、「被害者論」と併せてマスコミ報道では強調されている。

前回、すでに指摘したが、「起訴陪審」として適正手続きを強化するか(アメリカ風)、起訴法定主義を一部導入するか(ドイツ風)はともかく、現状の検察審査会の強制起訴制度について、ラフ・ジャスティスに陥らない「適正起訴制度」としての見直し改善は必要であろう。

 なお、過失犯においては、当該行為が「許された危険」な行為なのか、「許されない危険」な行為なのかの「基準」を明らかにすること(基準行為=行為規範の定立)が、特に危険が日常的に随伴する柔道などの格闘技の指導上、社会的にも重要な意義がある。その意味では、検察官の非公開の不起訴処分より、裁判所の公開法廷での判決のほうが、優れている。本件は、事例判決としての意義も大きいであろう。

刑事手続きの基礎「明石歩道橋事件における過失認定と強制起訴手続き」

 

1 以前、免訴判決との関係で論じた明石歩道橋事件の第1審である神戸地裁判決平成25年2月20日に対する大阪高裁の控訴審判決が本日(平成26年4月23日)あった。

控訴棄却判決であり、原審の判断の追認、つまり、被告人に過失はなく、公訴時効による免訴判決を容認したものであった。

2 そもそも、第一審の事実認定によれば、本件事件では、事件当時の警備体制に関する過失(本位的訴因)、事件前の警備計画策定に関する過失(予備的訴因)が主張されており、前者については、具体的予見可能性がなく(本部の警備のテレビモニターでは、映像が見にくく、現場からの無線等の報告により、状況を把握する必要があったが、被告人の無線のスイッチが入っていなかったこと、現場の警察官が適切な報告をしなかったが、警備経験のある警察官の行動を信頼していたことなどを理由とする)、後者については、警備計画が不十分であったことは認めるが、被告人が予想できた事情は抽象的な危惧感にすぎず(具体的予見可能性の否定)被告人の権限は署長を補佐補助する指揮監督権限の行使は不十分であったが、十分に行使しても結果を回避できたとはいえず(結果回避可能性の否定)、被告人の権限行使と本件事故との因果関係もないと判断されたものである。

3 証拠関係は膨大なものであったことは容易に推測され、事故当時の客観的状況、警備体制の不備に関係する各種の事実関係は複雑である。もっとも不利益な証拠は、被告人の指定弁護士に対する供述調書で無線を傍受していたとの部分であるが、本件事故から10ヶ月しか立っていない、これと矛盾する検面調書の供述を事故から8年9ヶ月もたって唐突に変遷させたもので、その合理的理由も説明されず、信用できないと原審は、判断している。判示された事実と証拠関係は、文面上不合理なところはなく、最終的に被告人に過失があったことについて合理的な疑いが残るということ自体、事実認定として明白に違法とはいえないであろう。今回、高裁が原審の判断を是認したのも理由があるといえるが、筆者自身、オリジナルの証拠を直接みていないので、証拠評価の当否については、なお留保したい。

4 マスコミ報道の基調は、検察審査会法の改正後による、いわゆる強制起訴制度※によって起訴された本件ケースについて、被害者や一般の市民の考えを無視するものとの批判的ムードも感じられる。しかし、本件で、検察官が不起訴にせざるを得なかったというのは、やはり証拠に基づく事実関係から過失の立証が困難ということがあったからということが裁判によって明らかになったといえよう。「民意」によって有罪となるではなく、「証拠」によって有罪となるという当たり前な刑事司法の原則=証拠裁判主義が、「市民感覚」によって、覆ったら、法治国家も法の支配もないであろう。これは裁判員裁判においても同じである。一部マスコミがいう裁判員の事実認定や量刑判断が上訴審で覆されることについて、民意を無視するものとの批判は適切とは思われない。民意=一般市民の裁判員による誤判も起こりうるからである。

5 本件における問題は、第一に事件から長期間経過し、検察審査会を数回経ての強制起訴であり、被告人の手続き負担はもとより、被害者の責任追及への期待感・心情が過度にあおられ、裁判の結果、その反動による落胆を大きくした点である。起訴するならば、早期の段階で、行うべきであったといえる。また、刑事的な個人責任の追及よりも「組織的過失」については、組織、法人、団体に対する処分ないし制裁が立法的に検討されるべきであろう。

第二に、検察審査会での判断と検察官の判断、つまり証拠評価のギャップが大きかったのではないかとの疑いが残る。大量の証拠、複雑な事実関係においては、プロである法律家ですらその判断は苦慮することが多い。特に本件のような「管理・監督過失」の認定は、証拠構造も複雑になる。一般市民の印象と予断による証拠評価の誤認をどう防止すべきなのか、本格的な「起訴陪審」※※として手続きの適正化も必要かもしれない。むしろ、被害者の意思をくむべしというのならば、被害重大事案について、一種の起訴法定主義※※※の導入も検討に値するのではないか。検察官の起訴不起訴判断が一般市民の目から見て信用できないとするのならば、最初から裁判所に判断を委ねるのが公平適正との考えもありうるからである。

第三に、本件訴因、つまり過失の構成、特に過失の共同正犯の法律構成は困難だったのではないかとの疑問もある。すなわち、本件の事実関係からすると被告人の問題となる過失態様は、いわゆる「管理・監督過失」態様のものであり、対等水平関係の「共同義務の共同違反」を基礎づける事案ではなかったのではないであろうか。訴因の構成も「管理・監督過失」構成のように読める。そうだとすると、仮に被告人に「管理・監督過失」が肯定されても、共同正犯は成立しなければ、結局公訴時効は完成し、免訴判決の結論となろう(いわば有罪的実体関係的形式裁判。こういった両成敗的な落としどころは、民事裁判的発想で刑事裁判的にはなじみにくいかもしれないが…)。

 

 強制起訴制度

  検察官の不起訴処分について不服のある被害者、告訴権者は検察審査会に不起訴の当否の審査請求ができる。平成16年の検察審査会法の改正により、検察審査会は、起訴相当の議決を行った後、検察官が再度不起訴処分にしたとき、または一定期間内に公訴しないとき、改め審査し、再度起訴相当と判断すると、起訴議決をすることができる(改正法41条の6)。起訴議決により、裁判所は、検察官の職務を行う弁護士を指定し、この指定弁護士が公訴を提起する(改正法41条の10)。検察官による起訴独占主義の例外である。なお、検察審査会においては、審査にあたって、弁護士から審査補助員を委嘱することができ、再度の起訴議決をする場合は、その委嘱は必要的である。なお、改正法の運用は、強制起訴による事件数は8件であり、そのうち有罪は一件だけで、残りは、無罪か、本件免訴判決である。通常の事件の検察官起訴の場合に比べ、無罪率が高いという特徴がある。被告人の手続き負担の重さ、指定弁護士の捜査権限の問題、検察審査会の証拠評価の判断の適正化など制度の再考が必要と思われる。

 

※※起訴陪審

 大陪審ともいう。アメリカ法では、起訴するかの当否について、大陪審(起訴陪審)で審理が行われ、その決議により起訴が行われる。改正法による検察審査会は一定の要件のもと起訴陪審と類似の機能を営むものといえる。

 

※※※起訴法定主義

 訴訟条件を具備し、犯罪の嫌疑がある場合は、必ず起訴しなければならないとする制度を起訴法定主義という。ドイツ刑訴法が採用する制度である(同法152条。但し、同法153条の軽罪の例外あり)。訴追裁量が認められず、起訴が強制される制度である。

これに対し、訴訟条件を具備し、犯罪の嫌疑があっても訴追するかどうかの裁量権を検察官に認める制度を起訴便宜主義という。日本の刑訴法が採用する制度である(刑訴法248条)。

 

ドイツ刑訴法(訳文 法務省大臣官房司法法制部編・ドイツ刑事訴訟法典[法曹会 平成13年]より)

第152条 

第1項「公訴の提起は、検察官の任務である。」

第2項「検察官は、法律に別段の定めのある場合を除き、訴追可能なすべての犯罪に対して、事実に関する十分な根拠が存在する限り、手続きをとらなければならない。」

 日本刑訴法

   第247条「公訴は、検察官がこれを行う。」

   第248条「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」