刑事政策の基礎 特別編「いわゆるテロ等準備罪について その2…陰謀・予備罪の意義(下)2」
エ 組織犯罪における殺人予備罪の成否(いわゆるオウム真理教「サリン生成用化学プラント建設事件」)について、東京高等裁判所平成10年6月4日判決(判時1650号155頁)は、以下のように判示する。
弁護人の「所論は、いまだ本件プラントの建設にも着工していない平成五年一一月ころから殺人予備罪が成立するとした点において、原判決には誤りがあるという。しかし、平成五年一一月ころの段階では、既にサリン生成工場としての第七サティアンが完成していたこと、効率的で量産可能な五工程から成るサリン生成方法が考案されてその生成に成功していたこと、七○トンのサリンの生成に向けて必要な大量の原材料の購入が始まっていたことの諸事情が存するのてあって、Aらが企図した殺人の実行行為に不可欠なサリンにつき、その生成工程がほぼ確立され、量産へ向けての態勢に入ったものといえるから、同時点以降のサリンの大量生産に向けてされた諸行為は、大量殺人の実行のために必要であるとともにその実行の危険性を顕在化させる準備行為として殺人予備罪に該当すると解される。このような観点からして、原判決が殺人予備行為の始期を平成五年一一月ころと設定したことに問題はないといえる。」
「所論は、本件プラントの第四工程が稼働したのは一回だけであり、しかも同工程に構造上の欠陥があったため生成されたジフロが回収されなかったし、第五工程は全く稼動していないということを挙げて、本件プラントは未完成であったから殺人予備罪が成立しないというが、右のとおり、平成五年一一月ころ以降のサリンの大量生産に向けてされた諸行為が殺人予備行為と評価されるのであって、所論指摘のような事情は殺人予備罪の成否に影響を与えない。」「所論は、また、平成七年一月一日の時点で、本件プフントが未完成のまま閉鎖され殺人の実行に着手することが不可能になったから、殺人予備罪は成立しないともいうが、そのようなことによって平成五年一一月ころから平成六年一二月下旬ころまでの間にされた殺人予備行為が不可罰になるわけのものではない。」
「所論は、被告人には本件プラントの最終生成物が毒ガスであることの認識が全くなく、殺人予備の犯意が認められないといい、被告人も、最終生成物が危険なものであることの認識はあったものの農薬か殺虫剤程度のものと考えていたと供述している。しかし、被告人は、ハルマゲドンが近いことや教団が毒ガス攻撃を受けていることなどを説くAが「ある魂が悪業を積もうとしているとき、その命を絶ってしまうことは善業である。救済のためには手段を選ばない。」などと説法するのを聞いた後、すぐにプラントの電気関係設計担当者に指名され、Bから「あるプラントを設計してもらう。今回作るプラントはDの方で実験済みであり、それをプラント化するだけだ。Dがこの実験の最中に死にかけた。この作業をやりたくない者は正直に言ってくれ。」などとの説明を受けて、本件プラントの建設作業に加担することになり、Fから五工程の作動手順、薬品の流れなどについての説明も受けていたものであることにかんがみ、既にこの段階から、本件プラントの最終生成物が人を死亡させるような危険物であることの認識を持っていたとの推認が可能である。」として、被告人に殺人予備罪の承継的共同正犯を認めている。なお、別の被告人のプラント建設関与について、同様に殺人予備罪を認めたものとして、東京地判平成8年3月22日判時1568号35頁以下がある。
本件は、サリン生成のために作られたプラントが未完成であっても、仮にサリンが現実に作成されなくても、サリン生成工程が確立し量産へ向けた体勢に入ったなどの状況下での本件プラント建設作業等の諸行為(平成5年11月から平成6年12月まで)は「大量殺人の実行のために必要であるとともにその実行の危険性を顕在化させる準備行為として殺人予備罪に該当する」としたものである。
予備行為の意義という観点からの本件の特色は※1、現実に既遂に至ったサリンによる大量殺人行為の共謀に参加していなかった被告人について、当該大量殺人の共謀共同正犯や殺人幇助が成立しないとしても、独立した事前のプラント建設という準備行為を取り出して、殺人予備罪の成立を認め、しかも、その始期が殺人の実行の着手から極めて遠い時点であっても(危険性が低い)、「実行の危険性を顕在化させる準備行為」として予備罪を認めている点にある(実際の殺人の着手既遂時は、松本サリン事件が平成6年6月27日、地下鉄サリン事件が平成7年3月20日であり、本件プラント建設に伴いサリンが生成されたのは平成5年11月であり、実行の着手は、サリン生成から7ヶ月後である)。※2
本判決は、前述の三無事件判決(ア)の「各犯罪類型に応じ、その実現に「重要な意義をもつ」あるいは「直接に役立つ」と客観的にも認められる物的その他の準備が整えられたとき、すなわち、その犯罪の実行に著手しようと思えばいつでもそれを利用して実行に著手しうる程度の準備が整えられたときに、予備罪が成立する」との基準よりも緩和した基準で認定しているといってよいであろう(山中敬一・「サリン生成用化学プラントの建設と殺人予備罪」ジュリスト平成10年度重要判例解説145頁参照)。これは、三無事件に比べて、実行の着手への転化容易性・時間的切迫性の観点を緩和して「実行の危険性の顕在化」があればよいとするものである。
この違いは、三無事件では、組織の体制が脆弱で構成員の行動の有機的統一性、機能性が弱かったが(そのため、射撃訓練やライフル2丁を購入していても騒擾罪及び殺人罪の予備罪が否定されている。騒擾罪が予定する暴行は一地方の平穏を害する程度の危険性であり、これに付随する殺人も多数人の暴動に付随するものであるとすれば、実行の着手にいたる前の準備段階の危険性は大規模な人的物的体制の確立、組織性に基づくことが要求される。)、他方、サリン事件では、組織の体制が強固で、リーダー(教祖)の意思支配のもと構成員の行動は有機的統一性・機能性が強い状態という点に求められる(私見。なお、本件準備行為が特殊的組織体における行為であり、サリンの生成工程が完成し結果的にサリンが生成されている点に着目し殺人予備を肯定するのは安里全勝・「判例研究 サリン生成用化学プラントの建設と殺人予備罪」山梨学院大学法学論集44号53頁)。
※1他人予備・予備罪の(承継的)共同正犯・予備の故意の問題点
本件については、論点が多く、予備罪の始期のほかに他人予備の可否、予備罪の共同正犯の可否、同承継的共同正犯の可否、予備の故意といった問題があるが、判決は、すべて肯定している(学説は各々否定説が有力であるが、他人予備及び予備罪の共同正犯につき最決昭和37・11・8刑集16巻11号1522頁は肯定説に立つ。傷害罪の承継的共同正犯を否定するのは、最決平成24・11・6刑集66巻11号1281頁であるが、予備罪のケースにその射程が及ぶかは不明である。)。予備の目的を自己の犯罪目的のみならず他人が犯罪を犯す目的を含むと解しているようにもみえるが、単に予備の故意を「殺人の準備行為の認識」として、目的を故意に解消すると解しているならば、目的犯概念を不要とするもので不当との批判がある(山中・前掲146頁)。なお、他人予備の単独正犯を認めない見解にたった上で、予備罪の目的を構成的身分と理解し、65条1項により予備罪の共同正犯を認める見解もある(藤木、井田など)。
※2予備罪が問題とされるケース
予備罪が問題とされる事例は、そもそも着手・既遂に至らない場合に立件されるケース(三無事件)と着手・既遂に至ったが、その共犯として処罰できない場合(具体的犯罪計画を知らない、因果性がないなど。いわゆる「共謀からの離脱」の離脱者の罪責もこれにあたる)に独立して予備罪として立件するケース(サリン事件)がある。前者のケースは極めて少なく実際には着手直前段階に達していた行為しか処罰されないといわれる(中山研一ほかレヴィジオン刑法2未遂犯論・罪数論15頁参照)。後者は事後的処理であり、犯罪予防上、組織犯罪の構成員をできるだけ広く網にかけて処罰するという観点が強い。それゆえ「予備罪による処罰の早期化というものが、本当に刑罰の介入段階を時間的に早期化しているのか、そうではなくて実際に起きた、実際に既遂までにいったような、あるいはその直前の未遂まできているような、社会的に問題化した事件について、関係者を広く処罰するために使われているのか、といった検証が必要」といわれている(中山研一ほか・前掲15頁)。