実務からみた刑法総論「共謀と実行」その1 | 刑事弁護人の憂鬱

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実務からみた刑法総論「共謀と実行」その1

 

1 はじめに

  犯罪の共謀に参加した共謀者は、共謀者のうち一人でも犯罪を実行した場合、実行行為の分担をしなかったとしても、共同正犯として責任を負う。これを共謀共同正犯という。これに対して、二人以上の者が実行行為を分担して犯罪を実行する場合を実行共同正犯という。刑法60条の共同正犯の「二人以上共同して犯罪を実行した者」の解釈として、実行共同正犯のみならず、共謀共同正犯を含むとする考えを共謀共同正犯肯定説ないし共謀共同正犯論という。

その実質は、①組織犯罪における実行を行わなくても、自ら手を汚さない背後の黒幕が主犯として実行者と同等ないしそれ以上に悪質で、当罰性がある場合(いわゆる支配型・黒幕型)、②実行した正犯者に対して実行行為と同様の必要不可欠な重要な関与・援助した者が、幇助として減軽するにふさわしくなく実行した正犯者と同等に悪質で当罰性ある場合(いわゆる対等型・分担型)などに共謀を根拠に「すべて正犯」として処罰するための理論ということができる。

たとえば、暴力団の親分が子分に対し、組織内の出世を条件に対立する暴力団の組長を殺すよう要請し、子分が親分に対する義理と出世のためにこれを了承し、現実に殺害行為に及んだ場合、子分にも殺人罪が成立するのはもちろん、親分も殺人罪の共謀共同正犯が成立する(①)。あるいは、甲乙丙が強盗を計画し、甲が被害者を脅し、乙が財物を奪取し、丙が見張りをするといった役割分担を企図し、それを各自が現実に遂行した場合、強盗の実行行為を行っていない丙も強盗罪の共謀共同正犯が成立する(②)。

判例実務は、戦前から今日まで、共謀共同正犯を肯定する。学説は、かつては、否定説が通説であったが、昭和33年の練馬事件判例、昭和57年判例における否定説の代表的論者であった団藤裁判官の肯定説への改説などを機に共謀共同正犯肯定説が、今日では多数説となっている。とはいえ、判例実務であらわれる事案において、学説上、共謀共同正犯の成立範囲・幇助との区別の基準が明確化されているとはいいがたい状況である。

  すなわち、判例分析から、判例の共謀共同正犯の成立要件ないし正犯と幇助との区別においては、①「自己の犯罪・他人の犯罪」の区別とするもの(松本、石井など)、②「正犯意思・従犯意思(加担意思)」の区別とするもの(正犯・共犯区別における主観説 中野次雄など)等が判例の基準であるとの評価がある(①と②は表現は異なるが、実体は同じ見解といってよい。①②の見解は、主として裁判官出身の論者から強く主張されるが、かかる主観説的な見解に対して、学説は批判が多い。)。これに対して、学説上は、正犯と従犯との区別において、実質的客観説の見地から犯罪遂行において、③共謀者が「重要な役割」を果たしたかどうか、行為支配したかどうかなどの基準も主張される。

また、「共謀」の意義という角度から、これを主観的要件とする主観説として①単なる意思疎通で足りるとする見解、②共同遂行の合意とその継続とする合意説(藤木)、客観説として③客観的謀議行為を要求する見解(練馬事件判例など)、④客観的要件として共同犯行の意識の形成を要求する見解(西原春夫など)、⑤折衷説等がいわれる。

  正犯と共犯の区別論(正犯意思など)と共謀の要件論がどういう関係にあるのか不明瞭であるが、そもそも、共謀共同正犯の特質は、「実行行為を行っていない共謀者」が「実行行為を行った者」と同様に「共同正犯」とされることにある。そこで、①共謀者の共同正犯性を基礎づける「共謀」とは何か、②共謀と実行との関係…「共謀者の役割」論の視点と③正犯意思などの区別論の位置づけを整理して、従来の判例及び学説分析を試み、共謀共同正犯理論の再構成を展望する。