刑法思考実験室 「行為共同説の理論的意義」その5(完) | 刑事弁護人の憂鬱

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5 行為共同説と間接正犯・共同正犯…行為共同説の理論的意義の転換

 

(1)        以上のように行為共同説は、共犯の本質論、共犯の従属性・独立性に関する思想として位置づけられてきた。しかし、他方で第2説の拡張的共犯論に見られるように間接正犯の制限・裏面の問題としても位置づけることもできる。つまり、行為共同説の思想は、間接正犯を共犯に解消する思想との評価も可能ということである(第1説・第2説)。よって、行為共同説は、間接正犯論の裏返しの問題でもある。しかし、直接正犯といえない場合は、すべて共犯とするとの拡張的共犯論とする考えと共犯概念を狭くとらえ(制限的共犯論)、共犯に当たらない場合はすべて正犯とする拡張的正犯論は、実行の着手をどの時点で把握するかは別として、実質的な処罰範囲を正犯とするか共犯とするか名称の違いでしかなくなってしまう。

(2)        他方、通説は、制限的(限縮的)正犯概念とりつつ、直接正犯と間接正犯を認め、かつ共犯処罰を従属性の思想により限定する制限的共犯論をとる(なお、制限的正犯概念と拡張的正犯概念の対比は不要とするのは団藤重光・刑法綱要総論第3版388頁)。そうだとすると、実質を考え、理論的フレームを反転させて理解すると、むしろ行為共同説の思想は、間接正犯、ひいては正犯概念・正犯基準として再定義すべきではなかろうか。すなわち、各自が他人の行為を利用して自己の犯罪を実現するという行為共同説の個人責任原理は、間接正犯そのものの「正犯原理」として理解可能である。すなわち、行為共同説・独立性の思想は、共犯ではなく正犯原理にシフトすることにより、説得的意味をもつ(自己の犯罪を主体的に実現する、つまり構成要件該当事実の実現について支配した者・みずから主となった者こそ正犯性の実質と理解する=行為支配説と適合する。)。したがって、間接正犯において要素従属性は不要で有り、被利用者は構成要件該当行為を行わなくても、間接正犯の成否に影響をあたえず(要素独立性)、軽い罪の故意犯が被利用者に成立しても、背後の利用者は、自己の犯罪を実現した=行為を支配したといえる限り、重い罪の正犯の成立を妨げない(罪名独立性・故意独立性。軽い罪の正犯の背後の重い罪の正犯を肯定する。※)。ただし、実行の着手において、客観的・具体的危険及び狭義の共犯との均衡から、実行従属性を肯定することは可能である(実行従属性・被利用者基準説。他人の行為を自己の行為の因果的射程として取り込んでいるという意味では、間接正犯も共犯的性質をもっている(間接正犯の共犯性)。したがって、立法政策論として間接正犯を共犯に解消する拡張的共犯論も不合理なわけではない。特に教唆犯に解消させる見解[野村、鈴木茂嗣など]は、教唆犯を実質正犯と理解することになろう。)。

(3)        また、(共謀)共同正犯における「自己の犯罪」性=正犯性は、行為共同説の思想(正犯性・独立性)と犯罪共同説(共犯性・従属性)の思想の融合として理解され、犯罪構成要件の「共同実行」の要件に結実する。その実質は、自己の犯罪を共同で実行する=相互的・機能的に行為を支配することであると解されよう(機能的行為支配説)。この点から、いわゆる片面的共同正犯の可否については、行為共同説の思想を重視すれば、肯定説になるが、「共同」の文言と犯罪共同説の思想を考慮する限り、否定説が妥当であろう(共犯処罰の限定性)。片面的共同正犯は、まさに「間接正犯」の一形態として把握すべきことになる。

(4)        以上、思考実験としての行為共同説の理論的検証と正犯原理への解消の試みは、共犯の従属性・独立性の意味について再考する一つの契機である。しかし、これが唯一の解というわけでもない。別の観点から、例えば客観的帰属論などからの検討・考察は、今後の課題である。

 

※背後の正犯

 間接正犯の典型は、被利用者に故意のない者[過失の場合を含む]、責任能力のない者[特に刑事未成年者]などであるが、被利用者に故意がある場合に背後の利用者に間接正犯、つまり故意ある者の背後の(故意)正犯が成立するかについては、学説上争いがある。従来の通説は、身分なき故意ある道具目的なき故意ある道具故意ある幇助的道具の場合(以上の場合は故意があっても正犯の基本的構成要件を実現できない場合)、軽い罪の故意の場合などに間接正犯を肯定する(団藤重光・刑法綱要総論第3版159頁。もっとも、同一の故意で意思の連絡がない場合の背後者についてまで間接正犯[故意正犯の背後の故意正犯]を認めるかどうかについては、片面的共犯との関係で問題となる。)。これに対し、故意がある場合は、共犯が成立し、間接正犯は成立しないとの見解もある。故意がある場合は、被利用者は利用者の規範的障害になっていない[西原・前掲360頁、山中・前掲771頁参照。ただし、山中説は、可罰的規範的障害欠如の場合に例外的に間接正犯を肯定する]、惹起された結果及びその侵害性について完全な故意のある者による、自由な意思決定に基づく行為が介在した場合には、背後の行為者に構成要件該当性を肯定することはできない[山口厚・刑法総論初版67頁。遡及禁止論]、あるいは、被利用者が構成要件に該当し違法で有責な行為を行った場合、利用者に間接正犯は成立しない[斎藤信治・「正犯と共犯」刑法基本講座第4巻67頁以下。間接正犯の消極的な要件として極端従属性説を採用する見解=消極的極端従属形式]などが主張される。なお、通説の立場でも間接正犯が認められない消極的な要件として、本人自身でしか犯すことができない「自手犯」という概念(例えば偽証罪など)がある(団藤・前掲155頁)。

しかしながら、間接正犯を本文のように行為共同説の思想をあてはめる限り、故意の従属性により間接正犯の成立範囲を限定する理論的必然性はないというべきである。間接正犯の正犯性を基礎づける行為支配が認められるかどうかが問題となるにすぎない(行為支配説 西田典之・刑法総論第2版328頁、事実的な行為支配=優越的支配により正犯の背後の正犯を肯定するのは高橋則夫・刑法総論初版397頁。なお、間接正犯は人を道具としてみずから実行行為をする者としつつ、構成要件該当事実の実現に対して支配力を有するものであるかどうかが間接正犯の実行行為の「定型性」とするのは団藤・前掲155頁)。

規範的障害を基準とする見解は、論者によっては罪名を異にする場合、規範的障害を否定する見解もあり[罪名別規範的障害説]、統一的ではないし、自由な意思決定に基づく故意ある者の背後者は、正犯の責任を負わないとすると、背後の黒幕である共謀者を共謀共同正犯として正犯の責任を認めることはできなくなろう[もっとも、論者は共謀共同正犯肯定説にたつ。山口・前掲276頁参照]。また、要素従属性・極端従属性を間接正犯の消極的要件として理解する見解は、背後者と被利用者について故意を異にする場合、間接正犯を否定するのか、肯定するのかは理論的にどちらもあり得るとしても[消極的な罪名従属性・故意従属性の問題]、遡及禁止論と同様に実行者が構成要件に該当し違法で責任ある行為を行ったことを前提の背後の黒幕における共謀者の共同正犯性については、やはり説明に窮しよう。

 

主要参考文献

 ・平野龍一・刑法総論Ⅱ(有斐閣 1975年)

 ・内藤謙・刑法講義総論(下)Ⅱ(有斐閣 2002年)

 ・西原春夫・刑法総論改訂準備版第4刷(下巻)(成文堂 1995年)

 ・阿部純二ほか刑法基本講座第4巻未遂・共犯・罪数論(法学書院 1992年)

 ・中山研一ほかレヴィジオン刑法Ⅰ共犯(成文堂 1998年)

 ・山中敬一・刑法総論Ⅱ初版(成文堂 1999年)

 ・山口厚・問題探求刑法総論(有斐閣 1998年)

 ・山口厚・刑法総論初版(有斐閣 2001年)

 ・高橋則夫・刑法総論初版(成文堂 2010年)

 ・前田雅英・刑法総論講義第5版(東京大学出版会 2011年)

 ・西田典之・刑法総論第2版(弘文堂 2010年)

 ・鈴木茂嗣・刑法総論第2版(成文堂 2011年)