刑法思考実験室 「行為共同説の理論的意義」その3 | 刑事弁護人の憂鬱

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3 行為共同説と因果的共犯論…共犯の因果性と限定性の意義

 (1)共犯の処罰根拠論について、責任共犯論と因果的共犯論を対置し、共犯もまた正犯と同様に結果に対して因果関係を及ぼしたがゆえに処罰されるもの、つまり、共犯の因果性は、共犯処罰の出発点であると主張したのは平野博士である。因果性がなければ共犯は処罰されないという意味である。

この共犯の因果性から、行為共同説を理解し直すと、「共犯とは、他人の可罰性を借用したり、他人と責任を共同したりすることによって、処罰されるのではなく、各人が自己の犯罪実現のため他人を利用することにより、自己の因果的影響力の範囲を拡張するものである」ということになる(内藤謙・刑法講義総論下Ⅱ1362頁。それゆえ、犯罪行為の一部共同とは、「それぞれの構成要件実現過程における因果関係の一部共同」と理解することになる[内藤・前掲1363頁。ほぼ同旨、山中])。よって、因果的共犯論[惹起説]と行為共同説が理論的に密接なものとして主張されることになる[第2説、第3説]。

しかし、同様に共犯の因果性の観点から、(部分的)犯罪共同説を理解し直すことも可能である。すなわち、部分的な犯罪の共同とは、特定の犯罪構成要件の重なり合う事実の因果的共同であり、共同正犯においては、さらに正犯性=(機能的)行為支配が、狭義の共犯においては、責任共同は責任の個別性から否定されるが、共犯の行為によって正犯の違法な行為が実現されること=正犯の違法行為は必要とされると理解することができる[部分的犯罪共同説・行為支配説・制限従属性説・修正惹起説ないし混合惹起説の総合的理解。今日の日本の行為無価値論・違法二元論において、明示的な統一見解はないが、しいて再構成すればこのようになろう。]。

そうだとすると、因果的共犯論[広義]・共犯の因果性は、行為共同説だけを基礎づけるものとはいえない。すなわち、共犯の因果性は、行為共同説の固有の性質ではないことになる。

(2)平野博士は、共犯処罰には因果性が必要だが、因果性があれば直ちに処罰されるというわけではなく、処罰は限定されるという(共犯処罰の限定性 平野・前掲382頁以下)。

 これが、理論上、何を意味するのか明らかでないが、教唆・幇助といった共犯行為の「類型性」という理解もある(内藤、前田)。しかし、再間接教唆や間接幇助、予備の共犯を肯定する立場にたつと、共犯処罰は限定されておらず、むしろ拡大しているし、論者は共謀共同正犯も肯定するから、「限定性」はほとんど考慮されていない(せいぜい、具体例として論者は、条文解釈上、過失による教唆・幇助は不可罰と解しているが、他方、過失の共同正犯は可罰的としており[平野、内藤]、条文解釈として一貫性があるとはいえない。)。「限定性」を「従属性」の問題と理解するのならば、個人責任原理=行為共同説の思想に反する結果になる「従属性」の理論的位置づけが解明されなければならない。行為共同説の思想からは「違法の連帯性」は直ちにはでてこないし、正犯と共犯の関係・区別すること自体、理論的に導き得ない。むしろ、正犯・共犯の関係・区別や「従属性」の問題は、理論ではなく立法政策上の問題と割り切るならば、罪刑法定主義の明確性の原則の範囲内であれば、どこまで「従属性」を認めるかの共犯論上の理論的基準は一切ないということになろう。しかし、政策的基礎がかわれば、理論的基礎もかわるとすれば[平野]、政策として採用された共犯の従属性について、その理論的意義を明らかにすることが、理論刑法学の見地からは重要である。

平野博士は、実行従属性の問題として、共犯の未遂の可罰性という観点から「従属性」を理論づけたが、要素従属性について、原則・制限従属性説、例外・最小従属性説を理論づける説明は不十分である(平野・前掲355頁は、違法が本来客観的なものであり、責任が主観的なものであることからの帰結として制限従属性説を主張するが、同358頁は、例外的に一身的違法の場合は、最小従属性説を主張するところ、両説の併用の理由付けは曖昧である。行為共同説の本来の思想からすれば、共犯の違法の相対性を肯定するのは当然であり、法益侵害説・結果無価値論の立場では、事実上、違法評価が一致するだけと考えると端的に最小従属性説をとることになるが[前田など]、そうなると第2説の拡張的共犯論に接近しよう。)。正犯から可罰性を借り受ける見解をとらないとすると、「従属性」(とくに「要素従属性」)の理論的論証は、今日の行為共同説、特に第3説からは、一つの課題である※。

 

※「従属性」の理論的論証の試み

 山口厚・問題探求刑法総論243頁は、共犯固有の違法性を重視する純粋惹起説を妥当としつつも(第2説への接近)、「従属性」の要件は「正犯による違法な構成要件実現が現実に生じない限り、刑法の介入を認める必要性・正当性を肯定することはできず、そしてさらに教唆・幇助という形態の、正犯責任の背後に位置する「二次的責任」としての共犯責任までを追及する必要性・正当性に乏しいと考えられることにより根拠づけられる」という。しかし、これは、刑法の謙抑主義、狭義の共犯の二次的責任性という「政策」的制限を述べているだけである。なにゆえ、共犯は二次的責任なのか。純粋惹起説の立場、正犯に責任がなくとも共犯は成立すること=制限従属性説の立場から、理論的論証が成功しているとは思われない。アプリオリに正犯=第一的責任、背後の共犯=第二次的責任と措定しているだけではないであろうか。惹起説に立ちつつ、要素従属性を外在的制約と考える見解も(松宮)、従属性を共犯の本質とは理論的に把握していないことになり、いわば政策的限定論理としての従属性という考えに帰着する。

 これに対し、犯罪共同説・共同意思主体説に立ち、共犯の従属性を規範的責任論の観点から理論的に基礎づける見解もある。すなわち、「共犯は、責任能力者の故意行為に対する加功である。この場合の正犯、したがって自己の行為の善悪を区別する能力のある者に対しては、前述のように、法秩序は適法行為を期待する。教唆を受けたにもかかわらず違法行為に出ないことを期待するのである。しかし、この想定は、もちろん、現実に正犯者が教唆にしたがい違法行為に出る場合のあることを排斥するものではない。正犯者が法秩序の期待に反して違法行為に出た場合、その正犯者に違法行為の意思を生じさせた者は、直接実行行為を行った正犯者ほどの違法性の重さはないにしても、やはり処罰に値する。これに反して、教唆がそれ自体に止まり、正犯者が実行の決意をしなかった場合、あるいは決意はしても現実に実行に出なかった場合(いわゆる教唆の未遂)、法秩序はなおこれを処罰すべきであろうか。特定の犯罪の教唆について、その危険性が多大でありそれ自体に刑罰を科すことによって一般予防の効果を期待しなければならない場合のあることは一応措くとして、一般に法秩序が教唆それ自体に対し実行行為と同様の違法性の重さ、または危険性を認めることは、法秩序が一方において正犯者に適法行為を期待することと矛盾しあう。最後の瞬間まで正犯者に対し適法行為を期待するということは、教唆が犯罪を誘発しないままに失敗に終わることを期待していることにほかならない。このような立場からすれば、教唆犯の違法性が教唆行為それ自体に備わっているとはいえず、教唆犯の違法性は、その教唆行為によって現に正犯者に犯罪を実行させたという点に存することになる」という(西原春夫・刑法総論改訂準備版下巻377頁~378頁)。しかし、この見解は、被利用者の規範的障害性、つまり適法行為への期待可能性の有無により共犯と正犯を区別するものであり、結局、極端従属性説、つまり責任従属性を肯定することになるのではないであろうか。そうだとすると、従属性の理論的基礎は、極端従属性説・責任共犯論・可罰性借用説を採用することによって、より明確になるが、これは今日の通説である制限従属性説・因果的共犯論と整合しない。

むしろ平野説を再定式化・修正すると、狭義の共犯は正犯の構成要件的な違法行為惹起を因果経過の不可欠な要素とするものであり、その可罰性は正犯の違法行為を現実化した点に求められる(可罰性は正犯から借り受けているのではなく、共犯が正犯の違法を生み出しているのである。平野・前掲354頁参照)。すなわち正犯の違法行為が共犯の「結果」であるという意味で、共犯は正犯の違法行為に理論的に「従属」すると考えればよいであろう。それは、違法な共犯行為と違法な正犯行為の因果的連結・共同が共犯の可罰性を基礎づけることを意味し、違法な共犯行為と適法な正犯行為の場合、適法な共犯行為と違法な正犯行為の場合に共犯の可罰性を肯定するものではない。つまり正犯の構成要件的違法行為は、共犯の処罰の必要条件であって十分条件でなく、共犯者に正当化事由がある場合、責任がない場合、共犯は成立しない。共犯の正犯に対する「制限従属性」は片面的である(共犯の違法の相対性・連帯性はこの限度で肯定すればよく、平野博士のように例外的に最小従属性説を採用する必要は乏しい。ただし、共同正犯に制限従属性説を援用すべきかは別問題と解すべきである)。この見解を修正惹起説とよぶか混合惹起説とよぶかは言葉の問題である。これにより、まさに「部分的」犯罪共同(従属)説が理論的に基礎づけられることになる。