※実行従属性・要素従属性・罪名従属性の分類法
本文で示したとおり、平野博士は、共犯の従属性・独立性を3つの観点にわけて理解する(平野龍一・刑法総論Ⅱ345頁以下)。すなわち、共犯は正犯の実行行為がなくても処罰されるかについて、共犯の未遂の問題を①実行従属性の問題とする。通説である共犯従属性説は、実行従属性説であり、新派の共犯独立性説は、実行独立性説と理解する。次に共犯が処罰されるには、正犯はいかなる犯罪要素を具備する必要があるか、いわゆる共犯の従属形式・従属性の程度の問題を②要素従属性の問題とする。極端従属性説(構成要件・違法・責任)、制限従属性説(構成要件・違法)、最小従属性説(構成要件)などが争われるが、通説は制限従属性説に立つ(平野説自体は、原則・制限従属性説、例外的に最小従属性説をとる。)。さらに共犯は正犯の罪名と同一でなければならないか、異なる罪名の共犯は成立するかの問題を③罪名従属性の問題とする。これが行為共同説と犯罪共同説の対立の問題と位置づける。これら①②③は、複線的な問題で有り、各場面で従属性・独立性のどれを採用するかは論理必然性はないとの理解もある(平野、内藤など)。なお、この分類は、第2説にたつ植田重正博士の実行従属性、犯罪従属性、可罰従属性の区分に類するが、犯罪従属性の問題は、罪名従属性に、可罰従属性の問題は、今日では共犯の処罰根拠論の一場面と評価されている(山中)。
しかし、本文で示したとおり、行為共同説の基本思想は3つの場面でともに独立性説をとることによって一貫する(第1説)。平野博士の罪名独立性説が行為共同説であるとの理解は、通説である部分的犯罪共同説が共犯と錯誤において、例外的に罪名独立性の結論をとることから、③が行為共同説の本質的要素とはいいがたいであろう。各自が他人の行為・事実を利用して、自己の犯罪を実現したこと、つまり自己責任・個人責任原理もとづく共犯理解が行為共同説の本質であり、罪名独立性はその効果の一つにしかすぎない。共犯における罪名決定を構成要件との関係からどう決定するかの問題は、刑法38条2項の錯誤論の共犯関係における援用の問題であって、本来の行為共同説[第1説]からは、共犯の成否の問題そのものではないといえる。また、強盗を教唆したところ正犯が窃盗を実行した場合、罪名独立性からすれば、本来強盗の教唆犯が成立するはずであるが、これを肯定するには、実行独立性(共犯独立性説)も肯定するのが素直である(これを否定し、窃盗の教唆犯を認めることは、罪名従属的である[例えば、第3説の前田])。また、公務員が収賄を非公務員に教唆し、非公務員が賄賂を受領した場合、公務員に収賄罪の教唆犯、非公務員に収賄の従犯を認める見解(正犯なき共犯:第2説)は、共犯行為だけで可罰性を認めている点は、共犯独立性的であり(しかも未遂ではなく既遂である)、収賄の従犯の点で罪名従属的である(むしろ65条2項との絡みからすれば、贈賄の従犯となるのが罪名独立性の見地から理論的ではないだろうか)。このように第2説、第3説は、行為共同説として理論的一貫性に欠ける嫌いがある。これは、行為共同説=独立性の思考に対して、①②の次元で従属性の思考という異質な[真逆な]考えを導入しているからである。解釈論として良いか悪いかは別として、問題解決思考を優先したため、あるいは正犯性=実行行為性の厳格解釈に拘泥したため、安易な独立性と従属性の思想の混合から理論的体系的整合性を欠くことになるのは、ある意味必然であろう。
※※正犯故意への従属性
狭義の共犯(教唆・幇助)は故意の正犯の場合でしか成立しないか。これを肯定することを正犯故意への従属性[故意従属性]という。ドイツ刑法は、明文で制限従属性とともに教唆・幇助の正犯故意への従属性を認めている。日本刑法の共犯規定について、犯罪共同説の立場から同様に解するのが通説であるが、行為共同説[第1説、第2説]からは故意従属性を否定し、過失犯に対する狭義の共犯を肯定している。
通説と行為共同説の一部[第3説]は過失犯に対する狭義の共犯は否定しつつも、この場合、間接正犯の余地を認める(なお、犯罪共同説にたちつつ、過失犯に対する幇助を認めるのは大塚、行為共同説の第3説にたちつつ、間接正犯が成立しない場合に過失犯に対する故意の教唆・幇助を認めるのは山口厚)。条文上、61条の「教唆」は正犯故意を前提としていると読むのが素直であり、62条の「正犯」について、正犯者の過失を故意に利用し積極的に促進援助する態様は、「従たる役割」を超えて、犯罪実現の主体・支配者と評価して「間接正犯」とみるのが妥当で有り、その反面解釈として、62条の「正犯」は故意の正犯に限定されると解釈すべきである。よって、正犯故意の従属性を肯定する通説を支持すべきである。なお、この場合の正犯の故意は、事実的故意であり、構成要件ないし違法要素であって、責任要素としての故意ではないと解すべきである(そうでなければ通説たる制限従属性説と矛盾するからである。ちなみに故意をもっぱら責任要素として理解し、故意従属性を認める場合は、論者の意図はともあれ結果的に極端従属性説を採用しているのと同じ事である。)。
なお、通説が教唆の意思で間接正犯の結果を生じさせた関与形式の錯誤の場合、重なり合う教唆犯の成立を認めることは、結果的に故意従属性を否定し、矛盾するとの批判もある[松宮]。しかし、この場合、38条2項を適用するならば、修正構成要件の一場面として例外的に故意従属性を否定するものと解したり、そもそも、客観的には間接正犯であり、教唆犯は正犯と同一の刑であるから、法定刑同一の場合の抽象的事実の錯誤の判例通説を援用すれば、間接正犯が成立すると解してもおかしくはない。そうだとすると、関与形式の錯誤の結論との整合性から故意従属性を否定すべきとの批判は通説にとって致命的なものとはいえないであろう。
ドイツ刑法
第26条「違法な行為を故意で行うよう、故意に他の者に決意させた者は、教唆犯として正犯と同一の刑で罰せられる」
第27条
第1項「違法な行為を故意で行うよう、故意に他の者を幇助した者は、従犯として罰せられる」
第2項「従犯に対する刑は、正犯に対する法定刑に従う。刑は第49条第1項により、減軽するものとする。」
日本刑法
(教唆)
第61条
第1項「人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の刑を科する。」
第2項「教唆者を教唆した者についても、前項と同様とする。
(幇助)
第62条
第1項「正犯を幇助した者は、従犯とする。」
第2項「従犯を教唆した者には、従犯の刑を科する。」
(従犯減軽)
第63条
「従犯の刑は、正犯の刑を減軽する。」