実務からみた刑法総論「部分的犯罪共同説の再考」その4 | 刑事弁護人の憂鬱

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4 法令適用からみた判例実務の理解                                  

  殺人の故意のある者Aと傷害の故意のある者Bが共同して被害者を死亡させた場合の共犯過剰のケースについて、判例を前提にすると法令適用には以下のものが考えられる。

(1)   Bについて、刑法199条・60条に客観的に該当するが、38条2項により刑法205条で処断するとするもの

(2)   Bについて、刑法205条・60条とするもの

(3)  Aについて、刑法199条・60条(但し傷害致死罪の範囲[限度])とするもの

(4)   Aについて、刑法199条・60条とするもの

(5)   Aについて、刑法199条とするもの

 

 昭和54年判例は、殺意のないBについて、(1)の適用を否定するものではないが、その趣旨からすれば、(2)の適用を是認することになろう。なお、前述の鹿児島地裁は、結果が発生しなかった場合で殺意のある者に殺人未遂(203条、199条)と60条(但し殺意のない者とは傷害の範囲)、殺意のない者には、傷害罪(204条)と60条(殺意のある者とは傷害罪の範囲[限度])という両方に限定を付している。

 平成17年判例は、(3)の適用を是認すると解される。

 そもそも(1)の適用は、罪名科刑分離説の解釈のように読める。昭和54年判例以前は、そのあたりは曖昧であったのである。おそらく従前の判例実務の本音は、38条2項を経由し、犯罪共同説の厳格な適用を修正して例外的に軽い罪の意思のある者に軽い罪の共同正犯を認めることを是認することにあったようにも見える(土本武司「共犯超過と共同正犯の成立範囲」判例タイムズ387号47頁参照。昭和54年判例も、罪名科刑分離説の解釈をとらないというだけで、このような解釈での法令適用を排斥していない。)。しかし、重なり合う軽い構成要件の限度での共同で足りるとする部分的犯罪共同説を前提に考えれば錯誤論、つまり38条2項をあえて適用する必要もないであろう。

 問題は、殺意のあるAの法令の適用(3)である(平成17年判例、鹿児島地裁判例参照)。部分的犯罪共同説では、過剰部分、つまり殺人罪の部分は単独正犯となることからすると本来、殺人の単独犯として法令の適用(5)が素直であろう(傷害の共同正犯部分は法条競合)。しかし、平成17年判例も、(3)の形式で、保護責任者遺棄致死の範囲と限定を付して60条を適用している。そのため、法令適用の見かけ上は、60条が適用されているので、単純に殺人の単独正犯そのものとは見えない。過剰部分を単独正犯とする部分的犯罪共同説の立場からは60条の適用があるということに対する疑問は直ちには解けないのである(この点の検討は後述する)。

よって、法令適用と罪数論上の理論的問題が、判例実務上、未解決の問題として残っている。

もっとも、実務的には上記(3)の法令適用で足りるという意味では、形式的な記載方法として意義があるといえよう※。

なお、行為共同説など罪名独立性を肯定する見地からは法令適用は(2)(4)の組み合わせが論理的である(上記(3)の法令適用を行為共同説から説明する見解として前田・前掲484頁参照)。

 

5 部分的犯罪共同説と過剰部分の罪責

  

(1)単独正犯構成と因果関係

 部分的犯罪共同説では、過剰部分、殺人と傷害致死の例でいえば、殺人の故意を有していた者Aの罪責は、殺人罪の単独正犯となる(土本・前掲47頁、鹿児島地裁など)。この場合、傷害の故意を有していた者の行為から死亡結果が生じた場合や誰の行為から結果が発生したか不明の場合に単独正犯としては殺人未遂の罪責しか問えないのではないかとの批判が行為共同説からなされている(西田典之・刑法総論第2版398頁など。なお、この場合、部分的犯罪共同説に立ち単独正犯の殺人未遂の包括一罪とするのは大塚仁・刑法概説総論第4版338頁)。つまり殺人について刑法60条の一部実行全部責任の効果が及ばないのはおかしいとの批判である。

 しかし、古い判例の法令適用のように重い罪(殺人罪)の客観的な共同実行の事実の該当性は否定できないこと、軽い傷害致死の共同実行は、Aの単独正犯としての殺人の実行行為の危険実現を遮断するものではなく、むしろ単独正犯としての殺人の実行行為の内実を直接的実行(Aの行為の部分)または間接的実行(Bの行為の部分=Aの行為の危険により誘発・促進されている)の複合として評価し、「危険の現実化」として、単独正犯の殺人既遂の客観的な結果帰属(因果関係)を肯定することに支障はないというべきである。

罪数論的表現をすれば、Aは、傷害致死の共同実行を内包する殺人の単独正犯であり(土本・前掲47頁参照)、重なりあっている部分=殺意以外の部分での因果関係=一部実行全部責任の効果は傷害致死を媒介としてAにも及び、傷害致死の共同実行が殺人の単独正犯としての実行行為に包括される結果としてAの所為は殺人既遂の評価を受けると考えるのである。

よって、部分的犯罪共同説の立場でも、Aの単独正犯としての既遂結果の因果関係は法的に否定されず、行為共同説からの上記批判は成り立たないというべきである(平成17年度最高裁判例解説207頁(注8)参照)。

 

(2)過剰部分の罪数処理に関しての試論

 罪名従属的な部分的犯罪共同説の立場では、過剰部分につき、殺人罪の単独正犯と傷害致死の共同正犯の罪数関係が問題となる。

観念的競合説では結果に対する二重評価の嫌いがあり、法条競合一罪説、包括一罪説または吸収一罪説も考えられる。

この点、「重なりあい」という部分的犯罪共同説の趣旨に照らせば、「傷害致死の共同実行を内包する殺人の単独正犯一罪」という意味で、特殊な包括一罪と解すべきである。「刑法199条、60条(但し傷害致死罪の限度)」という法令適用は、このことを表現するものと解することができよう。