(7)最決平成17年7月4日刑集59・6・403
被告人は、手の平で患者の患部をたたいてエネルギーを患者に通すことに
より自己治癒力を高めるという「シャクティパット」と称する独自の治療(以下「 シャクティ治療」という。)を施す特別の能力を持つといって、信奉者を集めていたところ、信奉者である被害者が脳内出血等の重篤な患者であっため、同人の息子からシャクティ治療の依頼を受けた。そこで、被告人は入院中の被害者を病院から連れてくるよう指示し、ホテル内でシャクティ治療を施したが、死亡の危険があるにもかかわらず、医者をよぶなどせず放置した事案につき、
「被告人は,自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上,患者が運び込まれたホテルにおいて,被告人を信奉する患者の親族から,重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際,被告人は,患者の重篤な状態を認識し,これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから,直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず,未必的な殺意をもって,上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させた被告人には,不作為による殺人罪が成立し, 殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると 解するのが相当である。」と判示した。
本決定は、最高裁ではじめて不作為の殺人罪を認めたものであるが、同時に殺意のない者との間で保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯をみとめたものである。この点は、争点化されておらず、原審の判断を是認する形をとっているが、法令適用としては、刑法199条、60条(保護責任者遺棄致死罪の限度)と解していることが推察される。すなわち、殺意のない者と殺意のある者との間で保護責任者致死罪の共同正犯の成立を認めつつ、殺人についてはおそらく単独犯と解しており、部分的犯罪共同説で不明確な点であった過剰部分(殺人)の法令適用を明確にしたものと評価できる。
3 犯罪共同説と共犯の錯誤
(1) 共同正犯とは、特定の犯罪を共同すること解する見解を犯罪共同説※という。この見解を徹底すれば、同一罪名にしか共同正犯は成立しないことになり(罪名従属性)、「故意の共同」が共同実行の意思として必要とされる。そうなると、共犯者間の認識が構成要件を異にする、すなわち故意を異にする場合は、共同正犯は成立しない帰結となる。
※犯罪共同説と行為共同説
犯罪共同説とは、特定の犯罪を想定し、それを共同すること、つまり数人一罪を共犯のモデルと考えるものであり、フランス刑法の学説に由来するという(ちなみに共犯従属性説と共犯独立性説の概念はドイツ刑法の学説に由来する。)。かつての通説といってよい(滝川など)。理論的には、共犯も構成要件の規制を受けること、60条の「共同して犯罪を実行」するという文理にも適合することが考えられよう。その理論的帰結は、構成要件を異にする共犯、過失の共犯、片面的共犯の成立は否定される。これに対し、牧野英一博士は、近代学派・主観主義の立場にたって、個人主義・個人責任の観点から、犯罪事実の法律上の構成を離れた行為ないし事実を想定し、それを共同すること、つまり数人が共同の行為により各自の犯罪を遂行する数人数罪を共犯のモデルと考えた(行為共同説)。よって、罪名を異にする共同正犯は成立するし(罪名独立性)、「故意の共同」も共同実行の意思として不要である。その理論的帰結として、過失の共犯、片面的共犯の成立を肯定する(江口三角「犯罪共同説と行為共同説」刑法の争点新版132頁参照)。現在では、因果的共犯論・結果無価値論の観点から、客観主義の立場でも行為共同説を支持する見解が有力になっている(佐伯千仭、平野、中山、内藤、西田、前田、山口など)。
なお、犯罪共同説と行為共同説の問題は、共同正犯の成否の問題に限定する見解もあるが(木村亀二など)、狭義の共犯の成否の問題も含むとするのが通説である。よって、犯罪共同・行為共同の「共同」は広く教唆・幇助を含めた「共働」ないし「関与」を含むと理解することになる(内藤謙・刑法講義総論下Ⅱ1358頁)。
(2) ちなみに共犯者の認識を超えた過剰な結果を他の共犯者が故意に実現した場合を共犯の錯誤の一種として「共犯過剰」という。構成要件を異にする場合の錯誤、抽象的事実の錯誤論の解釈の応用により解決するのが通説的理解である。すなわち、通説である法定的符合説によれば、構成要件を異にする場合、原則として実現事実についての故意は阻却されるが、例外的に構成要件が実質的に重なる場合、重なる軽い構成要件の限度で故意犯の成立を認めるものである。この見解を共犯過剰に当てはめれば、構成要件が重なり合う限度で軽い罪の共同正犯が成立し、重い罪の部分は単独犯とする見解、つまり「部分的犯罪共同説」となる(犯罪共同説+法定的符合説=部分的犯罪共同説)。
(3) 刑法38条2項について、法定的符合説は、重い罪を実現しても重い罪の認識がない場合は、重い罪の故意犯は成立しないと定めた規定と解している(法定的符合説からすると当然の注意規定である)。これに対し、少数説は、38条2項を重い罪の認識がなくても重い罪は成立するが、重い罪の刑では処断せず、軽い罪の刑で処断する規定と理解する(罪名科刑分離説 植松、莊子など)。共犯過剰の場合、犯罪共同説に38条2項の罪名科刑説を当てはめると、重い罪の共同正犯が成立し、重い罪の認識がない者には38条2項により、軽い罪の刑を科すことになる(犯罪共同説+罪名科刑分離説=完全犯罪共同説※)。
※犯罪共同説と罪名従属の関係
既述したとおり、犯罪共同説は、共犯者の罪名が同一(狭義の共犯においては正犯の罪名と同一)であることが帰結される(罪名従属性)。この犯罪共同説の厳格な適用をすると共犯過剰について共同正犯は成立しない。伝統的な学説の呼称では、この犯罪共同説を徹底する見解、または、客観的に重い罪の共同実行の該当性が認められる場合に罪名科刑分離説を適用し、重い罪名で共同正犯の成立を認める見解を完全犯罪共同説という(例えば内藤謙・刑法講義総論下Ⅱ1359頁、酒井安行「共犯過剰」刑法基本講座第4巻234頁など参照)。罪名科刑分離説は、抽象的符合説と理論的に結びつきやすいので(例えば、宮本英脩)、完全犯罪共同説=犯罪共同説+抽象的符合説という理解も可能であるが(酒井・前掲234頁)、論理必然というわけではなかろう。
なお、最近の学説では共同正犯不成立の見解を「かたい犯罪共同説」、罪名科刑分離説を適用する見解を「かたい部分的犯罪共同説」、従来の部分的犯罪共同説を「やわらかい部分的犯罪共同説」と分けて呼ぶ見解もあるが(前田など)、ネーミングとしてはわかりにくく理解に苦しむ(特に後2者)。
罪名従属という観点から改めてネーミングするのならば、重い罪の共同正犯を認める罪名科刑分離説(完全犯罪共同説)は、重い罪名従属性説、軽い罪の共同正犯を認める部分的犯罪共同説は、軽い罪名従属性説とも呼ぶのが簡明であろう。
ところで、狭義の共犯における共犯過剰の問題、例えば、Aが窃盗を教唆したところ、Bが強盗を実行した場合、部分的犯罪共同説では、構成要件が重なりあう軽い窃盗罪の限度でAに窃盗の教唆犯が成立し、Bには強盗の正犯が成立する。この場合、罪名従属性は貫徹されないことになる(罪名独立性)。よって、共同正犯の場合まで罪名従属性を徹底するかどうか、あるいは徹底できるかどうかは後述するように理論的問題が残る。