司法試験と法科大学院制度に対する一家言
本日、司法試験の合格発表があった。法科大学院(ロースクール)制度が導入され、司法改革の一環として3000名合格をかかげた10年前の制度設計の甘さ、杜撰さが露呈していることは、既存のメディアの報道からも、合格結果からも、ロー生、修習生などの現場の声からも明白である。合格結果からみると、昨年からの予備試験合格者及び合格率が軒並み上がっている。合格率は70パーセントを超えており、法科大学院修了者の合格率をおおはばに超えている。この点に限れば、法科大学院制度は失敗であることは明白である。需要と供給のバランスという点はもとより法律実務家の養成という観点からも3000名というのは現実性を欠く数字で有り、現段階の2000名すら過剰であるとの評価が適切であるが、10年前の理念を追随する主張者からのもっと増やすべしとか法科大学院擁護の主張は今後も絶えないであろう。
今回の制度的欠陥の犠牲者はまずは、司法試験受験生であろう。費用がかかる経済的コストはもとより、時間と受験回数制限による不合格のリスク、さらに合格しても、弁護士過剰による就職困難性、ひいてはOJTによる実務トレーニングの機会の大幅な喪失を受験生の自己責任に転嫁するのはあまりに酷である。
この制度の導入は、建前は、市民のために社会に隅々まで法律家が浸透し、弁護士過疎の解消など市民の裁判利用弁護士利用の擁護、多様な弁護士・法曹への期待などなどいわれるが、本音は、大学法学部が司法試験受験予備校に学生を奪われたことにたいする情緒的反発とコストしか考えない経済界の規制緩和の潮流・ビジネスローヤーの拡大と地位向上といった思惑のもと、文科省の管轄を司法養成にかかわらせ、裁判所、法務省、弁護士会の勢力の弱体化(司法修習の縮小化、法廷弁護士モデルの後退など)、補助金行政による法科大学院の乱立による法曹養成教育の不均一と劣化を招いている。
しかし、この国の多くの制度がそうであるように、おそらく制度設計者は誰も責任はとらないであろう。一般市民、国民にとっても直接の利害関係人ではないから、その問題関心はどうしても他人事であり、弁護士は「甘えるな」議論で終わってしまう。そのつけは、10年後に「司法崩壊」という形で国民に直接影響が及ぶことになってしまうかもしれない。
かつて日本のロースクールと呼ばれるにふさわしいものは司法研修所であった。まだ法曹資格のない者に実務の教育をすることは、そのモチベーションからも基礎知識の点からも困難で有り、法科大学院の教育はかつての司法研修所の教育の質・量ともに代替になるものではない。また、従来の弁護士登録後、勤務弁護士、いわゆる「いそ弁」として、実務経験を先輩弁護士から指導を受けながら習得するプロセスも重要な法曹養成のプロセスである。こういった従来の養成プロセスを無視し、単に受験勉強と司法試験の「点」として旧制度を短絡して「曲解」したことが、最初の大きな躓きである。
法科大学院の多くの教員が司法試験に合格したことのない、又は裁判実務経験のない者であるとどれだけの国民が知っているのか。国民のニーズは単なる肩書きだけの「法曹資格者」の増加なのか。
また、司法試験が選抜試験である以上、受験勉強という「点」の側面はその性質上当然で有り、むしろ、その後の養成プロセスこそが重要ではないか。前倒しした「法曹養成プロセス」が現実に機能しないのは、「点」という実体とその後の養成プロセスの重要性に目を背けるからではないか。
ここまでくると、筆者の法科大学院制度に対する評価と立場は明瞭であろう。支持者の既得権益がからむので、制度維持は当分続くであろうが、放っておいても自然に崩壊して行く。今回の合格結果はその予兆である。
よって、法曹をめざす若者たちへ贈ることばとしては、現時点、現制度下では、「法曹をめざすべきではない」というのが最良のアドバイスである。