刑法思考実験室「制限故意説再考…理論的解釈論的意義」 | 刑事弁護人の憂鬱

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刑法思考実験室「制限故意説再考…理論的解釈論的意義」

1 はじめに

  違法性の意識と故意の関係について、違法性の錯誤の解釈と関連して従来議論が交わされているが、判例の違法性の意識不要説は別として、学説上は違法性の意識の可能性必要説が通説となっている。通説によれば、違法性の錯誤は原則として故意または責任は阻却されず、相当な理由がある場合は例外的に故意又は責任が阻却されることになる。

 この違法性の意識可能性説の中でも、今日では理論的に明快な責任説※、つまり、違法性の意識の可能性は、故意・過失とは区別された別個独立の責任要素とする見解が多数説となっているといってよいであろう(平野、内藤、西田、山口、福田、大谷、井田、佐伯仁志、曽根、西原、高橋など)。かつての通説であった故意説(違法性の意識を故意の要件とする厳格故意説[小野、滝川、大塚、斎藤信治など])、違法性の意識の可能性を故意の要件とする制限故意説[団藤、藤木、佐久間など。なお違法性の過失準故意説として草野など])は少数説となっている。本論考では、制限故意説にしぼって、理論的解釈論的再評価を行うものである。

※責任説

 本来は、ドイツにおいて、目的的行為論・行為無価値論から故意は責任要素ではなく主観的違法要素ひいては主観的構成要件要素であり、構成要件的故意は事実的故意[構成要件該当事実の認識]と理解し、違法性の意識の可能性は責任要素として位置づけるという理解から主張された。この当初の見解は、構成要件該当事実の認識に故意を限定し、誤想防衛を違法性の錯誤として原則として免責しない結論を主張した(ヴェルツェルなど厳格責任説。日本では、福田など)。これはドイツ刑法の以下の規定に整合的である。

 ドイツ刑法

 第16条第1項「行為遂行時に、法定構成要件に属する事情を認識していなかった者は、故意に行為したものではない。過失による遂行を理由とする処罰の可能性は、なお残る。」

 第17条「行為遂行時に、不法を行う認識が行為者に欠けていたとき、行為者がこの錯誤を回避し得なかった場合には、責任なく行為したものである。行為者が錯誤を回避し得たときは、刑は、第49条第1項により、減軽することができる。」

 これに対し、誤想防衛について、責任説にたちつつ、故意を阻却する結論をとる見解を制限責任説という。これは厳密には、構成要件に違法阻却事由を吸収させる消極的構成要件要素の理論にたつ見解(中義勝、井田など)、故意を責任要素として構成する見解(修正責任説 平野、内藤、山口など。構成要件と責任の二重の地位をみとめて責任故意阻却の問題とするのは、曽根、佐伯仁志など)がある。なお、ドイツでは故意責任の法的効果を制限する見解もある。

 他方、ドイツ刑法と異なり、故意と違法性の錯誤(法律の錯誤)に関する規定は以下の通りである。

 日本刑法

 第38条第1項「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。」

 第3項「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」

 責任説は、38条3項を「法律」を法ないし違法性と読み、違法性の錯誤は故意を阻却しないとする規定と読み、但し書きは違法性の意識の可能性を前提として違法性の意識をもつことが困難な場合の責任減少についての規定と読む。違法性の錯誤に相当の理由がある場合=違法性の意識の不可能性は、超法規的責任阻却事由となる。これに対し、厳格故意説は、「法律」を「法規」(具体的な条文、罰則規定)と読み、38条3項は違法性の錯誤の規定ではなく、但し書きは、違法性の意識はあるが、法規を知らなかったためその違法性の程度の認識が困難であったことを念頭においていたものであり、違法性の錯誤は38条1項により、故意が阻却されると読む。

2 制限故意説の理論的根拠

 犯罪事実(違法な構成要件に該当する事実)の認識認容により、違法性の意識を喚起することができるという点を考慮すると、犯罪事実の認識認容があれば、違法性の意識の可能性が推定される※。違法性の意識がある場合はもちろん、違法性の意識がなくてもその可能性があれば、反対動機を形成して違法行為を回避することの期待は可能であって(規範心理的な抑止力・違法行為を避けようとする良心の抑止力=悪いこと(違法な行為)をしてはならないという心理的抑制可能性)、それにもかかわらず意図的な違法行為を実行した点に直接的な法的な非難をすることができる。この違法性の意識の可能性に裏付けられた直接的な非難可能性(規範的な評価)が故意責任の本質と理解できる。

 よって、故意とは、犯罪事実の認識認容といった心理的事実の側面だけでなく規範的評価を根拠づける違法性の意識の可能性も包含した「規範的責任要素」であって※※、違法性の意識の可能性も責任要素としての故意、つまり「罪を犯す意思」の要件であると解すべきである(制限故意説)。

 なお、従来、制限責任説の理論的根拠として、団藤博士の人格責任論が主張されていた。故意責任を直接的な反規範的人格態度と解して、違法性の意識がなくてもその可能性があれば直接的な反規範的人格態度を認めうるという(団藤重光・刑法綱要総論第三版316頁)。この見解の当否は結局人格責任論の当否にかかるといえるが、仮に人格的責任論を前提にしても、違法性の意識の可能性と直接的反規範的人格態度の関係が明瞭でない。ただ、団藤・前掲317頁は「違法性の意識を欠くばあいには、多く、なんらかの事情があるはずである。その事情のもとでは行為を違法でないと信じるのがまったく無理のないというばあいであれば、非難可能性はなくなるべきであり、責任は阻却されるものといわなければならない。これは期待可能性の理論と共通の基礎に立つ」という。すなわち、違法性の意識の可能性を故意の要件とする根拠として期待可能性の理論を援用している。よって、人格的責任論のみを理論的根拠としているわけではないようである。そうであれば、むしろ、前述のとおり事実的故意の提訴機能、規範的責任論・期待可能性論と違法性の意識の可能性の統合的理解を「規範的責任要素」すなわち「規範的故意」として再定式化することで制限故意説の理論的根拠として必要にして十分であろう。

構成要件的故意(事実的故意)の提訴機能・違法性の意識喚起機能

 違法な構成要件に該当する事実の認識認容があれば、違法性を意識が喚起・提訴されるという場合をいう。中義勝博士の提唱にかかる。一般人ならば違法性を意識しうる事実の認識を故意とする実質的故意論(前田)は、この見解を発展させたものといえよう。なお、中説は誤想防衛の場合は正当防衛の認識により違法性の意識が提訴されないのであるから、構成要件的故意が阻却されるという(消極的構成要件要素の理論・制限責任説)。

※※故意の二重の地位

故意の法益侵害行為は、過失の場合より、その結果を実現しようとする意思的側面は社会に対する脅威感・影響力は大きく、法益侵害の危険性も高度であって、刑罰による抑止の必要性は大きいという意味で、未遂の場合はもちろん既遂の場合も、故意は主観的違法要素としての意味をもつ。そして、本文で指摘したとおり、故意は違法性の意識の可能性に裏打ちされた規範的責任要素としての意味も有するのであり、この意味で故意は違法と責任の二重の地位を有することになる(違法要素としての故意を類型化し、外部的動作から客観的に認知できる範囲の意思方向としての犯罪事実の認識・認容部分を構成要件的故意として位置づけるが、ほぼ同様の趣旨として藤木英雄・刑法講義総論137頁以下参照)。ちなみに多数説は、犯罪論体系上、構成要件を違法類型または違法有責類型として、故意を構成要件と責任の二重の地位(団藤、藤木、前田、曽根など)、あるいは構成要件と違法と責任の三重の地位(大塚など)を認める構成をとる。

なお、私見の訴訟法的ないし認定論的犯罪論体系からすると(鈴木茂嗣・刑法総論第二版260頁以下参照)、積極的要件としての故意=罪となるべき事実の認識認容は、①原則的成立要件(犯罪構成要件=犯罪類型=罪となるべき事実[刑訴法335条1項])の主観的要件(主観的構成要件)であり、例外的な誤想防衛[正当化事情を基礎づける事実の錯誤]や違法性の意識の不可能性は、②犯罪成立阻却事由(法律上犯罪の成立を妨げる理由[刑訴法335条2項])=故意阻却事由[故意の消極的要件]という意味で、二重の地位として位置づけることになる[原則・例外要件としての二重の地位]。また、実体法的犯罪論[実体的犯罪性質論]からすると故意は、前述したとおり、違法及び責任要素であるから、故意阻却事由もその実体的性質は違法阻却の場合[誤想防衛=故意の違法性の阻却で有り、過失の違法性はなお残る]と責任阻却の場合[違法性の錯誤の回避可能性がない場合]がある[阻却事由の実体的性質論としての二重の地位]。

原則要件:故意の積極的要件=罪となるべき事実の認識認容

例外要件:故意の消極的要件=故意阻却事由[犯罪成立阻却事由]…正当化事情の錯誤・違法性の錯誤

3 批判と反論

 この制限故意説には、まず、違法性の意識の「可能性」という要素を犯罪事実の「認識」に含むのは困難であるとか、「認識」と「可能性」=過失を混同するものという批判がある。

 しかし、「罪を犯す意思」という言葉は、単なる事実的な意思ではなく「犯罪」意思であって、犯罪は行為規範に違反するものであり、「罪を犯す意思」は規範違反の観点からは、いわば行為規範に違反すると評価可能な意思(規範的評価概念・法的に規範違反の評価可能な意識・心理状態であって、規範違反の認識=違法性の意識そのものではない。)であり、これは単なる犯罪事実の認識という心理的事実だけでは、責任非難を基礎づける「規範的意味づけ」としては不十分である。そもそも規範的責任論の観点からは、故意=「罪を犯す意思」は単なる「事実的故意」=心理的事実ではなく、非難可能性を根拠づける「規範的故意」として理解することが妥当である。また、違法性の意識を導くものとしての犯罪事実の認識認容は、違法性の意識の可能性を基礎づける原則的要素で有り、違法性の意識の不可能性は例外的事情であるから、故意阻却事由として理解する限り、故意の原則成立要件=犯罪事実の認識認容、例外的故意阻却事由=違法性の意識の不可能性と判断するのであるから、「認識」と「可能性」(ないし違法性の過失)を混同することはない。

 さらに違法性の意識の可能性は過失にも共通の要件であって故意に含ませるのはおかしいとの批判が責任説からなされている。

 しかし、この点は、違法性の意識の可能性は、責任要素としての過失の要件でもあると解すれば、問題はない。つまり、犯罪結果の予見可能性があるということは、犯罪結果の予見を通じて間接的に違法性の意識の可能性が推定されるのであり、間接的な非難可能性としての過失責任を基礎づける。ただし、故意の場合と同様に違法性の意識の不可能性は例外的事情であるから、過失阻却事由として位置づけ理解すれば、上記批判は当を得ない。

すなわち、責任要素としての故意及び過失は規範的責任要素で有り、ともに違法性の意識の可能性を包含し、その不可能性は例外的故意または過失阻却事由であると解すべきである。

4 まとめ

 結局、このように考えると、制限故意説は、実質的に責任説であるが、違法性の意識の可能性を故意・過失の概念要素とし、その不可能性を故意・過失の阻却事由と構成することにより、条文上の基礎づけ(刑法38条1項による故意阻却ないし210条の「過失」・211条の「注意」に該当しないという条文解釈)を提供し法的安定に資する点に解釈論的意義がある。

 すなわち、違法性の意識の不可能性を責任阻却事由とする明文規定は現行刑法にはないのであるから、責任説では超法規的責任阻却事由と構成せざるを得ないが、制限故意説では、刑法38条1項等の条文の解釈の枠の中で違法性の意識の不可能性を阻却事由として構成することができるという意味で法的安定性のある解釈が可能となる(もとより、私見は、ドイツ刑法のように立法により真正な責任説を採用することを否定するものではない。)。

 このように再定式化した制限故意説故意説の衣をまとった不真正な責任説でありかつ故意の規範的責任の性質を重視するものであって、現行刑法の解釈論上、理論的にも実践的にも十分今日でも妥当する理論といえよう。

 よって、日本刑法38条3項は、責任説と同様に「法律」を法ないし違法性と読み、違法性の錯誤は故意を阻却しないとする規定であって、但し書きは違法性の意識の可能性を前提として違法性の意識をもつことが困難な場合の責任減少についての規定と読み、違法性の錯誤に相当な理由がある場合[錯誤の回避可能性がない場合]は、違法性の意識の可能性がないので、38条1項により故意が阻却されると解することになる。