解題「結果回避義務違反と許された危険…過失犯の構造の再編」 | 刑事弁護人の憂鬱

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 私が20年以上前、学生だった時分から比べると刑法の教科書はかなり多くのものが最近出版されている。とくに結果無価値論の立場からのものがふえている。かつては、団藤・大塚説が通説といわれていたが、教科書のレベルでは、もはや行為無価値論の立場は少数説的な立場にようにみえる(なお、団藤先生の教科書は過失犯も簡潔すぎるのであるが、今からよむと非常に重要な指摘もあり、古典的通説として意味があるが、悲しいながら当時はそこまで理解がおよんでいなかった。)。大塚先生の本が難解で砂をかむような感じで先輩から刑法を教わったため、当時は少数説であった平野先生をはじめ結果無価値論系の文献を反動でむさぼるように読んだ時代がなつかしい。

 とはいえ、結果無価値論は、過失犯論が記述が弱いし、結局「修正」せざえるをえない構成になり、理論的一貫性を欠くなあという印象であり、それは、今日の新しい教科書をみてもあまり変わらない。

過失犯の分野では、行為無価値論に立脚する新過失論ないし危惧感説が学説史的に重要で有り、残念ながら結果無価値論からは、批判的論考はおおくても、これにかわる積極的な「理論」はまだ主張されていない。

 むしろ、もはや古典的ともいえるが、藤木英雄先生の教科書、論考がいまだ有益であり、今日でも読む価値があるものといえる。学説の大半は危惧感説を批判するが、問題となった森永ドライミルク事件判決の「結論」自体批判は少なかったりする。

 もっとも、絶版本を学生さんによめというのは酷で有り、新過失論・危惧感説にたった最近の教科書としては高橋則夫先生の本が入手しやすい。ただし、論者特有の概念である行為規範と制裁規範の規範論理は一般的でないので注意を要するが。

 最近、といってもここ10数年くらいであるが、結果回避義務論を許されない危険の創出として客観的帰属論の枠組みに解消する見解もある。教科書レベルでは山中敬一先生のものがあるが、これもまだ一般的とはいえない。

 今回の論考のきっかけは、単に藤木説以降の学説整理だけでなく、危険運転致死傷罪と過失犯の関係をどう理解するべきなのか、それは結果的加重犯と過失犯との関係でもあり、許されない危険からの結果惹起という点で結果的加重犯と過失犯の構造が接近するのではないかという疑問があったからである。

 故意犯と過失犯の複合というより狭間にあった結果的加重犯がひるがえって過失犯の構造の旧来の理解を再構成させる契機となるのではないかという問題意識である。

 本論考は、従来の行為無価値的な社会的相当性論的思考とは、微妙に異なり、危険衡量的な、危険ないし回避負担の配分という功利的な観点と責任主義との調和からみた「許された危険」の再定式化を試みているのであるが、もう少し理論的には整理したいところである。

 なお、故意作為の結果犯においては結果無価値論的思考が、故意不作為犯、身分犯、過失犯においては行為無価値論的な思考がフィットする。これが何を意味するのか。結果無価値論と行為無価値論の対立論争の終着点はこのあたりに潜んでいるのかもしれない。


 さて、本論考のごとく過失犯の理論的側面だけでは、過失犯の構造の理解としては不十分で有り、訴訟法的観点からの問題性(訴因の特定・変更、過失の認定など)について、別の機会に論ずる予定である。