(1)結果的加重犯の構造
以上のように危険運転致死傷罪は結果的加重犯の一種と理解されるところ、結果的加重犯一般については、その加重根拠及び責任主義との関連で以下の点が従来から議論されていた。
ア 加重処罰の根拠…危険性説
結果的加重犯は、その結果について故意犯より刑が軽く、結果についての過失犯より刑が重い(たとえば、殺人罪、傷害致死罪、過失致死罪を比較せよ。)。そして、それは、基本犯の刑より重いのであり、基本犯と過失結果犯の刑の総和より重い。よって、結果的加重犯の加重根拠をどう解するか問題となる。
この点、従来の通説は、後述する責任主義の観点から、加重結果に対する過失必要説にたって、単に故意犯と過失犯の複合犯と解していたが、加重根拠を明確に説明するものではなかった。
近時の有力説は、結果的加重犯の加重根拠について、経験上類型的かつ高度な危険性が内在している故意犯(基本犯)から、その危険の現実化として結果が生じたことにあると主張する。すなわち「死傷結果を発生させる類型的で高度の危険性を内在させている基本犯は、侵害犯であると同時に、被害者の生命・身体に対する故意の具体的危険犯に類似した側面をもつものであるから、重い結果に対する故意の侵害犯(殺傷罪)としての法定刑に近い程度までの加重は許されてよい」と解されるからである(危険性説 丸山雅夫・「結果的加重犯の構造」現代刑事法第5巻4号【№48・2003年】45頁以下参照)。
故意の基本行為の類型的な高度な危険性と結果に対する未必の故意にいたらない場合に、その違法性の程度・反社会性は単なる結果に対する過失犯の程度を越えていると評価可能であり(ただし、結果に対する故意犯の違法性未満)、その違法性の重大性と一般予防を根拠に結果的加重犯の加重根拠を求めるべきである。この意味で危険性説を支持すべきである。
イ 加重結果と因果関係・過失の要否
結果的加重犯は、基本犯の故意があれば足り、加重結果の認識は不要と解されている。さらに加重結果について過失が必要かについて、判例は、過失不要説に立っている。その背後には、過失を要求すると結果的加重犯の成立範囲が狭くなりすぎるとの懸念があると思われる。
しかし、過失不要説では、加重結果について無過失責任を認めることになり、責任主義の観点から妥当でないとの批判が多い。よって、過失必要説が通説となっている(団藤・前掲180頁など。刑法改正草案第22条参照。)。
責任主義の観点からの批判に対しては、過失不要説は、基本犯の故意があれば責任主義を充足していると考えるか(丸山・前掲論文43頁参照)、加重結果を客観的処罰条件と解して過失不要を基礎づけることが考えられる。しかし、これでも責任主義の観点からは不十分との指摘が可能である。
また、過失不要説に立ちつつも、加重結果の因果関係を(折衷的)相当因果関係(藤木・刑法講義総論93頁、200頁参照)又は客観的帰属(高橋・前掲230頁以下は危険性説を前提としつつ、危険の現実化の客観的帰属関係があれば、過失を不要としても責任主義を間接的に充足していると解している。)を要求して結果的加重犯説の成立範囲の限定を図る見解もある。
しかし、危険性説及び客観的帰属の観点から、結果的加重犯においても因果関係の限定は当然必要であるが、加重結果に対して過失を不要とする根拠とはならない。因果関係=客観的帰属が、責任主義=主観的帰属を代替するわけではないのである。これらの見解は、実質、過失(予見可能性)を因果関係論で考慮するものであって、裏側から過失必要説をとっているに等しいのであり、理論的明確さを欠く。
危険性説によれば、基本犯の内在する高度な危険性の認識があり、その危険の現実化として結果が発生すれば、行為者にとって、通常結果に対する予見は可能であり過失を要求しても結果的加重犯の成立範囲が不当に狭まるとはいえない。
危険性説にたっても、責任主義との観点からは、理論上、過失必要説が妥当というべきである(丸山・前掲論文44頁参照)。
よって、結果的加重犯は違法性の点では、故意の基本犯の内在する固有の高度な危険性とその現実化に特色があり(危険性説)、責任主義の観点からは故意犯(基本犯との関係)と過失犯(加重結果との関係)の複合的性格を有していると解することになる。
(2)過失犯の結果的加重犯化の意義
判例の過失不要説の立場にたち、危険運転致死傷罪を結果的加重犯と理解すると、その主観的要件は、危険運転行為の故意があれば足り、死傷結果の予見可能性=過失は不要ということになる。同罪が立法化される前の同様の事案は、業務上過失致死傷罪の適用がなされていたから、結果については当然予見可能性が要求された以上、本罪で基本行為の客観面と故意の立証を要求する点では、要件がしぼられているが、結果に対する過失不要という点では、成立範囲は拡張されている。実務上は、前者の点で立証の困難さがある一方、後者の点では、立証の負担が軽くなるという特色がある。
他方、基本行為に故意が立証できない場合や「運転の困難な状態」などの客観面が立証できない場合は、業務上過失致死傷罪(現在では自動車運転過失致死傷罪)が適用され、結果についての過失が要求されることになるのであり、過失について重要な要証事実が変更されるのであるから、訴訟法上は訴因変更が必要となろう(実務上の工夫としては予備的訴因として自動車運転過失致死傷罪を追加しておくべきである。)。
そもそも、危険運転過失致死傷罪の基本行為である危険運転行為は、安全運転という基準行為から逸脱した「許されない危険」な行為であり、結果回避義務違反行為を類型化したものである。その認識があれば、通常結果に対する予見が可能であり、結果に対しての予見義務違反としての過失を認めることは困難ではない。
つまり、同罪は、実質上、自動車運転過失致死傷罪の認識ある過失の一類型を道交法違反の結果的加重犯として特別の犯罪類型として立法化したものであると解すべきである。換言すると、危険運転過失致死傷罪は、自動車運転過失致死傷罪との関係では認識ある過失の特別加重類型であり、道交法との関係では道交法違反の結果的加重犯である(過失犯説)。このような観点からすると、危険運転致死傷罪を「傷害の罪」の章におくのは立法論的に適切ではないことになる。公共危険罪の性格を併有するならば、なおさら「傷害の罪」の章におくのは適切ではない。むしろ「自動車交通の罪」というカテゴリーを新設し、自動車交通事故類型の範疇として危険運転致死傷罪、自動車運転致死傷罪の規定を整備すべきであろう(自動車運転致死傷罪を一般規定、危険運転致死傷罪を特別規定と位置づける。)。
過失犯の観点から見ると、危険運転致死傷罪は、危険運転という「許されない危険」行為を類型化明確化するものであり、行為規範の観点及び一般予防の観点からは一応の政策的意義がある。
ただし、その重罰化が積極的に犯罪抑止につながるか、特に特別予防上効果をあげるかどうか、かえって重罰化が犯行の隠蔽・ひき逃げ事案を誘発していないかなど被害者論だけでない観点からの刑事政策的冷静かつ慎重な検討が必要であろう(内田・前掲論文71頁以下参照)。
以上の考えの解釈論的帰結としては、危険運転致死傷罪の死傷結果には過失=予見可能性が必要であること(過失必要説)、同罪にも信頼の原則の適用があること、結果回避可能性がない場合は、同罪が成立しないことなどがある(過失犯との並行的理解)。そして、加重結果に過失を必要とするので、危険運転の認識の立証ができなくても訴因変更せずに自動車運転過失致死傷罪を認定できる(一種の縮小認定。もっとも予備的訴因の追加を否定するものではない。)。
基本行為の故意については、私見によれば、その実質は、「認識ある過失」であるから、当該基本行為から結果発生する高度な危険性を有し、結果回避(危険運転防止)を動機づける程度の認識が必要であり(「許されない危険」を基礎づける事実の認識)、具体的には、アルコール等による正常運転困難類型(208条の2第1項前段)について、前方不注視の過失結果を生じた場合は、「アルコールの影響により前方を注視してそこにある危険を的確に対処しすることができない状態」の認識と解すべきである(最決平成23・10・31参照※)。
なお、判例(最決平成20・10・16)は、赤色信号無視類型(208条の2第2項後段)の赤色信号を「殊更に無視し」とは、「およそ赤色信号に従う意思のないものをいい、赤色信号であることの確定的認識がない場合であっても、信号の規制自体に従うつもりがないため、その表示を意に介することなく、たとえ赤色信号であったとしてもこれを無視する意思で進行する行為もこれに含まれる」という。これは、アメリカ法における「無謀ないし重大な過失」(recklessness)、つまり「結果発生の重大かつ正当化しえない危険を意識的に軽視する」の概念に類するといえよう(なお、星周一郎・「危険な運転による致死傷と危険運転致死傷罪・自動車運転過失致死傷罪」都法53-1【2012-07-31】219頁は、自動車運転過失致死傷罪について、アメリカ刑法の「無謀」を含むとの解釈を示唆するが、むしろ、危険運転致死傷罪そのものにも妥当しよう。)
※「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」の解釈とその故意の意義
最決平成23・10・31は「刑法208条の2第1項前段の『アルコールの影響により正常な運転が困難な状態』とは,アルコールの影響により道路交通の状況等に応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態をいうと解されるが,アルコールの影響により前方を注視してそこにある危険を的確に把握して対処することができない状態も,これに当たるというべきである。…本件は,飲酒酩酊状態にあった被告人が直進道路において高速で普通乗用自動車を運転中,先行車両の直近に至るまでこれに気付かず追突し,その衝撃により同車両を橋の上から海中に転落・水没させ,死傷の結果を発生させた事案であるところ,追突の原因は,被告人が被害車両に気付くまでの約8秒間終始前方を見ていなかったか又はその間前方を見てもこれを認識できない状態にあったかのいずれかであり,いずれであってもアルコールの影響により前方を注視してそこにある危険を的確に把握して対処することができない状態にあったと認められ,かつ,被告人にそのことの認識があったことも認められるのであるから,被告人は,アルコールの影響により正常な運転が困難な状態で自車を走行させ,よって人を死傷させたものというべきである。」とする。なお、本決定には事実認定について田原裁判官による反対意見がある。
さらに同罪の共同正犯については、結果的加重犯・過失の共同正犯と同様に考えることができる。すでに述べたとおり、この点は、肯定的に理解できよう。たとえば、共同運転行為という場面は、2台の車がスピード競争で信号無視等の危険運転を行う場合が考えられる。※
※危険運転致死傷罪の教唆犯・幇助犯
危険運転致死傷罪の教唆犯、幇助犯はどうか。死傷結果について過失必要説を前提にすれば、これを肯定することは加重結果部分に関して過失犯に対する過失の教唆、過失の幇助を理論的に肯定するのと同じことになる(判例のように過失不要説ならば、通常の故意犯の場合と同様に肯定することになり、以下の議論は不要となろう。)。しかし、通説的見解は、犯罪共同説や教唆、幇助の文言から「過失犯に対する過失の教唆・過失の幇助」を否定する。そうだとすると、危険運転致死傷罪の教唆、幇助も否定することになるのが素直な理論的帰結である。
しかし、危険運転行為自体、道交法上の違法行為であり、その故意の喚起またはその故意の危険運転行為への故意の加担は、十分ありうることであり、危険運転の認識は致傷結果発生の予見可能性を基礎づけるものであるから、その故意は結果に対する過失=予見可能性を内包しているのであって、単なる過失犯に対する過失の教唆・過失の幇助とは実体を異にする。
つまり、危険運転致死傷罪の教唆は、危険運転の故意を喚起して、正犯の過失結果を間接的に惹起し、幇助も危険運転行為を促進させることにより、正犯の過失結果を間接的に惹起する。この意味で因果的共犯論・惹起説の理論的射程内である。
さらに教唆とは故意を喚起させることを意味するが(教唆の正犯故意の従属性)、結果的加重犯の場合は基本犯の故意の喚起で足りると解することに文理上無理はなく、結果的加重犯も「正犯」(刑法62条)であるから、その故意の幇助も文理上排除されない。ただし、故意のない者の利用は、行為支配が認められる限り、間接「正犯」と解されるから、その反対解釈として、幇助の対象となる刑法62条の「正犯」は行為支配が認められない「故意の正犯」に限定すべきであり(幇助の正犯故意の従属性)、結果的加重犯も基本犯との関係では「故意の正犯」と解すべきである(立法例としてドイツ刑法第11条2項参照。故意犯との並行的理解)。
また、教唆・幇助は刑法38条1項本文から故意による場合が原則であり、過失の教唆・幇助は特別な規定がないので通常処罰されない(同条項ただし書き)。ただし、結果的加重犯は過失を包含した故意を有する特別な犯罪類型であり、故意を媒介とした過失結果の限度で特殊な過失の教唆・幇助の類型の処罰を肯定する特別の規定と解される(立法例としてドイツ刑法第18条参照)。
よって、過失必要説にたっても、危険運転致死傷罪の教唆犯・幇助犯は肯定できることになる。
なお、ドイツ刑法には結果的加重犯について、加重結果の過失及び共犯処罰について下記のとおりの特別の規定がある。
ドイツ刑法
第11条 第2項「行為については故意を要件とし、行為により惹起された特別な結果については過失で足りるとする法定構成要件を実現した場合でも、その行為はこの法律の意味で故意によるものとする」
第18条 「法律上、特別な行為結果に、より重い刑が科されているときは、この結果に関して、正犯又は共犯に少なくとも過失の責任が負わされるときに限り、この重い刑でその者を処断する。」