(1)結果予見義務と結果回避義務の関係
ア 結果予見義務不要論
新過失論からは、結果回避義務違反が重要であり、予見可能性は結果回避可能性・結果回避義務の前提であるが、予見義務は独立した意義をもたないという理解がある(藤木英雄・刑法講義総論234頁、西原・前掲198頁など)。
他方、旧過失論からも、結果予見義務は、故意をもつことを義務付けるのは不合理であり、予見可能性あれば過失責任を問えるという理解がある(山口・問題探求刑法総論161頁以下など。このような理解をとると過失を注意義務違反ではなく、単なる予見し得た心理状態として理解し、心理的責任論に回帰するに等しく、通説的な規範的責任論と整合的かは疑問が残る。)。
しかしながら、結果予見義務は、単なる結果の予見=故意をもつべき義務ではなく、結果を予見して結果を回避する動機づけを行い結果回避へと導くために要求されるものである(結果回避義務の履行の前提であり、結果回避義務との関連性の要求。このこと自体、旧過失論でも認めており、ただ、結果回避義務から独立したものではないとするのは山口・前掲161頁。)。つまり、結果予見義務は結果回避の動機づけを目的としたものである※。
よって、結果予見義務の履行とは、正確には、結果回避の動機付けの契機となる具体的な因果関係の基本的部分と密接に関連する結果の予見をすることである。それゆえ、新旧過失論の立場の異同にかかわらず、なお、結果の予見可能性とともに結果予見義務も必要と理解すべきである。
※ 動機付け義務
学説には、結果予見義務と動機付け義務をともに過失の注意義務と位置づける見解もある(大塚、佐久間など)。しかし、動機付け義務は、反対動機形成可能性を前提とする責任非難の評価基準そのものであり、故意犯と共通のものである。よって、あえて過失概念に取り込む必要性はないであろう。ただし、結果回避の動機付けの契機となる予見を行うためには、正確な情報収集とそれに基づく正確な判断・熟慮することが必要であり、結果予見義務はかかる情報収集・熟慮義務をうちに含んでいる。それゆえ、結果予見義務違反は結果回避に関する「判断ミス」であり、これが過失の責任非難を基礎づけると解すべきである。
イ 予見可能性の程度と対象
(A)具体的予見可能性説と危惧感説
前述したとおり、結果予見義務の要否については争いがあるが、結果の予見可能性が必要であること自体、新旧過失論争にかかわらず争いはない。問題は予見可能性の内実である。
多くの裁判例及び通説は、結果及び因果関係の基本的部分(本質的部分・重要部分)を予見対象とし、その具体的予見が必要と解している(具体的予見可能性説※ 内藤謙・刑法講義総論下Ⅰ・1116頁、西田典之・刑法総論第二版265頁など)。この見解は、故意の認識対象とパラレルに予見可能性の対象を理解するものといえる(とすれば、本来は、実行行為、因果経過の相当性ないし危険の実現も予見対象となるはずであるが、通説はそこまでは言及しない。なお、内藤・前掲1118頁は、実行行為の危険性とその危険性の結果への相当な実現の予見可能性は、「因果関係の基本的部分」の予見可能性として考慮しているとの理解を示す。)。
これに対し、結果の予見可能性は結果発生の危惧感・不安感あれば足りるという見解がある(危惧感説・不安感説※※)。すなわち、「予見可能というためには、結果発生にいたる具体的因果経過の予見までは必要でなく、一般人ならばすくなくともその種の結果の発生がありうるとして、具体的に危惧感をいだく程度のものであれば足りる」と解するものである(藤木・前掲240頁)。森永ドライミルク事件判決※※※を契機に主張されたものである。
たとえ、結果発生のメカニズム(具体的因果経過)が行為時の知見から不明=ブラックボックスであっても、結果発生の一抹の不安・危惧感を感じる場合は、その不安・危惧感を打ち消す結果回避措置をとるべきであり、かかる結果回避措置がなされず結果が発生した場合は、過失犯が成立するとする。
すなわち、未知の危険に挑む場合でも、わずかの負担でかなりの範囲の危険を防止できるというのであれば、その負担を命ずるのが合理的であり、「当時だれにもわからなかったことだから責任を負わされなくてよい」という弁解を容易に認めてはならないとするのである(藤木・前掲241頁参照)。
しかし、この見解は、過失犯を広く処罰し結果責任を問うに等しく責任主義に反すると批判された。
他方、具体的予見可能性説も具体的な事案において、どの程度の具体性を予見可能性の基準とみているのか曖昧であり、法定的符合説的な抽象的な「およそ人の死」のレベルから具体的な「その人の死」のレベルまで論者によってはばがあり、判例の具体的事案では、実質は危惧感説をでしか説明できないともいわれる(たとえば、北大電気メス事件など)。
※具体的予見可能性と因果関係
通説は、抽象的な不安感ではたりず、ある程度の高度の予見可能性を要求する(平野など。なお、西原・前掲202頁以下は自然的予見可能性=不安感ではなく刑法的予見可能性=具体的予見可能性が必要という。)。予見対象論として、故意の認識対象として因果関係の認識を要することとパラレルとして因果関係の基本的部分を予見可能性の対象とすること自体、一見理論的にみえるが、「基本的部分」でなぜ足りるのか、その選別基準に曖昧さが残るのは否めない。ただ、理論的につめて考えれば、新過失論からは、結果回避措置・結果回避義務との関連性が、旧過失論からは具体的な結果=法益との関連性が予見可能性に要求されると解することもできる(修正旧過失論に立つ西田・前掲265頁は、「因果関係の基本的部分」とは、その事実を認識可能であれば結果に対する予見可能性も肯定できるような予兆、契機、経験的事実などを意味するものという。)。他方、因果経過のうち、どの部分が行動準則=結果回避措置の契機となる危険性を基礎づける事実として相当かという判断も、許された危険・結果回避義務論ないし客観的帰属論の観点から説明も可能かもしれない。
なお、結果の具体性については、荷台無断同乗事件(最決平成元・3・14)がある。荷台に同乗していた者を認識していなくても、暴走行為により衝突事故を起こせば、無断同乗者の死亡について過失致死が成立すると判断するものである。この判例については、故意錯誤論のおける法定的符合説とパラレルに「およそ人の死」の予見で足りるという理解、逆に具体的符合説とパラレルに荷台同乗の認識可能性を前提として、具体的な「その人の死」の予見が可能とする理解あるいは、運転者・歩行者・同乗者等の交通関与者の死という具体的な予見が必要とする理解などがある。しかし、このケースも荷台同乗の事実を「因果関係の基本的部分」として抽出して予見可能性の対象の問題とすることも可能ではないかとも思われる。