刑法思考実験室「結果回避義務違反と許された危険…過失犯の構造の再編」その6 | 刑事弁護人の憂鬱

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5 結果回避義務と結果予見義務の内実

(1)許された危険の法理と結果回避義務違反の関係

許された危険(erlaubtes Risiko)の法理とは、自動車運転、列車の運行、航空機の操縦、化学工場の操業など結果発生の危険がある行為でも、その行為の一般的な社会的有用性から、全面的に禁止されず、たとえその行為から結果が発生しても「許された危険」の範囲内にある限り、犯罪(基本的に過失犯を前提としているが、故意犯の場合もあり得る)は成立しないとするものである。

この許された危険の法理は、交通機関など社会的有用性を生命などの法益の保護より優先させる思想であり、極論すれば、社会の発展のためには少しくらい人が死んでもよいという生命軽視の考えに至る危険がある(平野・前掲198頁~199頁参照)。さらに行為規範の違反性=行為無価値を重視し、結果惹起=結果無価値の点を軽視するものとの批判もある。確かに、この見解が19世紀終わりから20世紀初頭のドイツの産業社会の発展時に生まれ(エクスナー、エンギュッシュなど)、道路交通政策優位の思想をうちに含んでおり、理論上、社会的相当性説と結びつき行為無価値を強調した理論(ヴェルツェルなど)に影響を与えたことは間違いはない(前田・前掲291頁~292頁)。

しかしながら、自動車事故を例にとれば、統計的に一定の割合で死傷事故が発生することは容易に予測できるものであって、法益の侵害の危険をはらむものと同時に自動車の運転が社会的有用であるであることもまた社会的事実である。すなわち、科学技術の利便性を享受する現代社会は同時に法益の侵害の危険が日常生活上、常態的に発生している、いわゆる「危険社会(Risikogesellschaft)である。この「危険社会」においては、誰もが加害者、被害者になり得るのであり(高橋・前掲126頁以下)、結果が発生した場合、誰が刑事責任を負うかという観点において、公平の見地から「危険の分配」を図り、各人に各人の立場に応じた結果回避義務を課し、その順守を要求することが社会的有用性(に基づく行動の自由)と法益の保護との調和を図ることができる。

すなわち、社会的有用性と法益侵害の危険との相関関係、つまり前者が大で後者が小の場合は、「許された危険」といえるが、前者が小で後者が大の場合は「許された危険」の範囲を超えるかどうか(つまり「許されない」危険)を判断する具体化する下位基準ないし類型化基準として、具体的結果と関連する回避措置の設定(仮定)、回避可能性、基準行為(結果回避義務の履行)からの逸脱という基準を用いて違法性ないし構成要件(実行行為)の判断すること自体、法益保護との関係上、十分合理性を有するものである。

さらに、結果回避措置の履行は、規範的事前的観点から結果発生の危険を減少させるものであり、回避可能性のない場合は結果発生の危険をコントロールすることができず法益保護を行為者に命じることはできないのであり、結果を帰属する「危険の創出」を認め得ない。つまり、「許された危険の法理」はいわゆる客観的帰属論に包摂されるという理解も可能である。※

よって、過失犯における結果回避義務との関係で言えば、「許された危険」かどうかは、結果回避義務違反があるかどうかである。つまり、「許された危険」と結果回避義務違反は表裏の関係にあり、「許されない危険」な行為が過失犯の実行行為である

そして、結果回避義務は、具体的な結果回避可能性の存否により基礎づけられる。それは当該対象行為と具体的な結果との因果経過を前提にいかなる具体的な結果回避措置が可能であったかを検証するものである。想定される結果回避措置の履行が「基準行為」となり、この基準行為からの逸脱、つまり「許された危険」の範囲を超えることが結果回避義務違反となる。この逸脱は、①結果回避措置が全く行われない場合(気づき得た時点で停止可能な状態での前方不注視により被害者の飛び出しを予見せずブレーキもふまなかったなど)結果回避措置の履行が不十分な場合(被害者の飛び出しに気づきブレーキを踏んだが、発見と停止行為が遅れたなど)がある(西原・前掲201頁参照)

    

    ※許された危険の法理の変遷

 同法理は、違法阻却の次元において、まず法益考量説的な考えから出発し、次に社会的相当説と結びつき、構成要件レベルで新過失論における結果回避義務違反=客観的注意義務違反=社会的相当性の逸脱(社会的不相当)という行為無価値重視の考えを基礎づけた(前田・前掲291頁以下参照)。最近では本文でのべたとおり、客観的帰属論の考えに包摂されつつある。その理論的背景としての「危険社会」の思想がある(高橋・前掲126~127頁、199頁~200頁など)

さらに、かかる「危険社会」化に加えて、IT化による情報化社会が進展した21世紀の今日においては、インターネットをはじめとする高度情報技術・ネットワーク社会の拡大とともに、それを基礎づける情報ネットワークシステムへの攻撃により、容易に社会生活に混乱と多大な被害をもたらすものである。つまり、今日的な日本を含む先進国における「危険社会」は、高度情報化により「脆弱化社会」という側面をもち、地域社会など伝統的なコミュニティの崩壊は、国民間の相互不信感を助長し(不安社会)、「体感治安」の強調は積極的な国家による刑罰による制裁・介入を広く是認する傾向がある(「危険社会」「脆弱化社会」「不安社会」と刑罰積極主義の結合)。また、被害感情重視は、ポピュリズムに裏付けられた赤裸々な応報主義の復活と厳罰化・重罰化の刑事政策をもたらしている(市民刑法から敵味方刑法への傾斜)。こういった今日的背景から、「許された危険の法理」も、さらなる変遷あるいは処罰拡張の方向での適用制限ないし後退をせまられるかもしれない(藤木・刑法講義総論244頁は、許された危険の法理を認めつつ、「万一生じうべき事態が、人命・健康に対する取り返しのつかぬ被害であるときにまで、それを無視して危険をおかすことが許されるわけではない。そこにこの理論の限界がある」という。)。実際、結果無価値論・旧過失論の立場から、理論的に行為が「許される」となぜ法益侵害の惹起も「許される」ことになるかとの疑問が投げかけられている(山口厚・問題探求刑法総論185頁以下参照)。しかしながら、許された危険の法理は、危険社会では、結果回避の負担・リスクをどの程度、結果をめぐる関係者(行為者、被害者、第三者)に分配し、義務づけるのが相当かという観点からの「調整」を計ることが重要で有ると考えるものであって、単なる形式的な法益衡量的観点からの「調整」と予見可能性という基準だけで現実に過失犯の合理的処罰範囲を画することは困難であるという認識にたつものである。もちろん「許された危険」は規範的抽象的概念であって、具体的下位基準の定立が必要であることは当然である。その基準こそが「結果回避義務違反」であり、「信頼の原則」、「危険の引き受け」などである。過失犯の結果惹起という結果無価値要素を重視することは当然であるが、他方、実行行為論・帰属論の観点からの処罰制限論理=許された危険の法理が危険社会における行動の自由と法益保護の合理的調整の帰結として理解することは十分な理由があるというべきではないだろうか。結果=法益侵害があった以上、原則処罰しなければならないという硬直した観点そのものは、古い絶対的応報思想でしかないし、「悪しき結果主義・客観主義」の回帰でしかない。もちろん、結果無価値論と絶対的応報思想との結合は、被害感情重視の正当化とともに近時の厳罰化・重罰化の刑事政策を支える理論的バックボーンとなる可能性があるが(本来の結果無価値論のスタンスからすれば逆方向である)、それが理論的及び政策的に妥当であるかは別問題である。