(3)ただし、過失犯との関係では、むしろ事前的にみて結果回避が可能であっても、事後的にみて結果回避不可能ならば(たとえば、速度超過・前方不注視などの義務違反があっても、行為時に行為者も一般人も予測が困難であった自動車のブレーキの構造的欠陥により回避行動をとっても回避できなかった場合)、そもそも、行為者には刑法上の結果回避義務は課せられないとして、注意義務違反つまり過失そのものを否定するという理論構成もありうる。この考えをすすめると、事前的な観点から結果回避義務違反がみとめられても、結果が発生しない場合は、事後的観点からは結果回避義務は課せられていないという評価も可能であり(たとえば、速度超過・前方不注視等の義務違反があっても、被害者がたまたま道路をよこぎることを途中でやめたため、結果が発生しなかった場合)、さかのぼって過失(実行行為)がない(いわば「過失に未遂なし」※ )という結論になる(一種の遡及的構成。なお、危険の実現の確定から遡及して過失犯の実行行為を認めるものとして山中・前掲348頁参照)。
すなわち、過失犯においては、具体的な結果発生との関係で事後的な結果回避義務の解除ないし可罰性の否定の意味で、この実行行為一元的構成のアプローチのほうが、結果回避可能性の実行行為と因果関係の二元的構成よりシンプルかもしれない。
とくに今日の因果関係論が、相当因果関係説ないし客観的帰属論の見解が錯綜しつつも、近時の判例の理解として「危険の実現」という概念による共通理解が形成されつつあるが、いまだ明確かつ具体的な帰属基準が判例学説上定まっていない状況では、結果回避義務違反としての「過失」ないし実行行為がないという一元的構成は、過失犯の問題解決上の便宜的構成として明快である。
また、行為規範と結果との結びつきを重視するならば、一元的構成も理論的に不可能ではない。※※
もちろん、一元的構成ないし二元的構成のいずれを採用するにしても、事前的または事後的結果回避可能性が否定される場合、過失結果犯の客観的構成要件該当性は否定され、同罪は成立しないことになる。※※※
※過失犯の未遂
通説は、過失犯にも理論上、未遂があることを肯定する(平野・前掲199頁以下など)。この考えは、注意義務は侵害されたが(過失はあるが)、因果関係を欠く場合という論理構成を認めるものであり、故意犯の場合と共通の地盤にたった理解である。
これに対し、井上正治「過失犯の構造」116頁以下は、過失犯の未遂を理論上認めることは、具体的な結果とは切り離された常識に基づく多様な仮定的抽象的な注意義務を認めることになり、法と道徳を混同するもので妥当でなく、「過失は、原則として、結果を無視して、注意義務を求めることはできない」「因果関係がないところには注意義務の侵害さえない」という考えを提起し、過失犯において、具体的な結果ないし因果経過と注意義務(結果回避義務)との関連性を強く認めて、理論上、過失犯の未遂を否定する(ちなみに英米法では未遂は意図が可罰性の中心であり、故意犯しか理論上認められていない。)。この考えによれば、結果が余りにも突飛なため因果関係がない、つまり(事後的)結果回避可能性がない場合の結果は「定型的な結果」とはいえなくなり、定型的な結果でない以上、いかなる注意義務も課せられるはずはないと解することができる。いわば事後判断としての「許された危険」による「過失」=結果回避義務違反(実行行為性)を阻却するものと評価することができよう。
※※可能性と義務・行為規範と結果の関係
「法は不可能なことを義務づけない」という命題は、具体的な行為者を対象とすると、責任の問題と理解されやすい。いわゆる違法二元論(規範違反説)では、当為=違法、可能=責任と解するからである
(西原春夫・刑法総論改訂版上巻150頁以下参照)。しかし、ここでは、具体的状況におかれた一般人を対象とする命題として理解し、一般人を基準とした結果回避可能性とその義務付けという意味で「法は客観的に不可能なことを一般人に義務づけない」という意味で理解すべきであろう。もっとも、規範論理として可能性と義務は別の概念で有り、可能性とは切り離して義務付けを考えることもできる。しかし、結果回避可能性と切り離された結果回避措置なるものは、義務付けしても結果回避において何の役にもたたない。法益保護と無関係な、無益なことを刑法上義務付けることは立法者の不合理な命令を刑罰に裏付けられる刑法上の「行為規範」と是認することになる。しかし、これでは、法益保護を目的とする刑法の「行為規範」として無意味であろう。通説が単なる道路交通法上の義務違反が直ちに刑法上の結果回避義務違反とはならないというのは、この観点から理解できるものである。この意味で、結果発生防止=法益保護を目的とした行為規範(裏面としての行為規範違反としての法益侵害)が結果回避義務とその違反の内実を構成する。つまり過失結果犯においての「行為規範」は正確には、「不注意により法益侵害結果を発生させてはならない」の意味であり、結果惹起の禁止を含むものであって、「不注意による危険な行為の禁止」という結果発生を除いた、狭義の行為に限定された「行為規範」ではないと解すべきである(なお高橋・前掲200頁~203頁は、結果発生は「制裁規範」の問題であり、「行為規範」の問題ではないが、「社会生活上必要な行為」と「法益保護」を結びつける要素として「危険状況」の存在を「行為規範」に組み込み、過失犯の「行為規範」(命令・禁止規範)を「認識可能な危険状況の存在を契機として、当該行為から法益侵害に至り得ると認識し、あるいは認識し得た場合、その侵害を回避するために必要なことに注意して当該行為を行え、あるいは行うな」とする。結果との関連性を考慮するのは妥当だが、結果を軽視する予見可能性論における危惧感説(高橋・前掲208頁は危惧感説を採用する。)と結びつく規範論理構造は、過失結果犯の未遂の可罰性を認めていない刑法の規定構造と整合的か疑問であり、結果を規範内容とせず処罰条件とする行為無価値一元論へ傾斜するようにみえる。行為規範論においても、結果を含む「広義の行為」概念を想起しなければならないし、行為無価値一元論はともかく、行為無価値・結果無価値のいわゆる違法二元論において、結果無価値が行為無価値の単なる付加的な「おまけ」であってはならない。なお、通説は、結果を切り離した狭義の行為の禁止として行為規範を想定していると思われ、目的的行為論の呪縛といえよう。中山=浅田=松宮・レヴィジオン刑法3 52頁~53頁参照。)。これは故意の殺人既遂の行為規範が「人を殺してはならない」と結果発生の禁止をうちに含んでいるのと同じ事である。
具体的な結果回避義務は、自動車事故においては道路交通法の規制などが基準として考慮されるが、これにつきるものではなく、その実質は、事後裁判所により評価確定される(開かれた構成要件)。そのため、厳密な意味での行為規範としての結果回避義務は、観念的抽象的な形でしか、例えば「社会生活上の必要な注意」(ヴェルツェル)としかいいようがないのは確かである。ただし、交通事故など事故態様の定型化・類型化が構成しやすい領域や裁判例を通じて構成される具体的な注意義務の認定の集積が、具体的な結果回避義務の下位基準として機能し、具体的行為規範が形成されることになる。それでも具体的な結果との関係では、結果回避措置は具体的状況で最終的に定まるものであり、事前告知としての行為規範の明確性はなお不十分なものがある。この点を立法的に明確化する方法として、後述するように過失犯を結果的加重犯として構成することが考えられる。
※※※作為可能性と結果回避可能性
本文で指摘したとおり、過失結果犯においては、結果回避可能性の問題を実行行為と問題とするか、因果関係の問題とするかの見解の対立は、過失未遂が処罰されていないので、結果回避可能性がない場合、過失犯は成立しないという結論において、実務上実益のある問題ではない。
しかし、故意犯においては未遂が処罰されている場合、実行行為の問題とするか、因果関係の問題とするかは、未遂犯の成否とかかわる。他方、故意の不作為犯においては、作為可能性が作為義務ないし実行行為の問題と通説は考えており、結果犯においては作為義務と結果回避義務は重なるとすると、(事前的)結果回避可能性は、実行行為の問題と理解すると理論的整合性がはかれる。もっとも、故意の作為未遂犯の問題は、不作為可能性=結果回避可能性ではなく、もっぱら危険性の問題で、不能犯との関係から、具体的危険説の立場では、具体的危険が肯定される限り、未遂が成立する。また故意の作為の場合、不作為可能性がない場合というのは、現実にそうそうあるものではない。第三者から犯罪行為を強要される場合が考えられるが、これは「強要による緊急避難」や期待可能性の問題として位置づけられる。これは故意の作為犯は、「禁止規範」のみ問題となり、「結果回避措置の履行」という意味での「命令規範」を行為規範の内容として原則含んでいないからである。この意味で結果回避可能性ないし結果回避義務を故意作為犯の実行行為の原則的要件とすることは、理論的に疑問が生じることになる。
(4)では、過失犯の因果関係固有の問題は想定できるか。
従来の通説である相当因果関係説は、故意犯・過失犯でとくに因果関係の基準を区別していない(ただし、既述のとおり、例外的に条件関係の次元では合義務的択一的挙動=結果回避可能性が判例学説において問題とされた)。
また、いわゆる客観的帰属論は、①許されない危険の創出(行為の危険)、②危険の実現・現実化という概念を大枠にしつつ、事案の性質に従って類型的に具体的な帰属のルールを吟味する見解であるが(なお、さらに帰属の限定基準として③構成要件の射程などを要求する見解もある。ロクシンなど)、この見解の中には過失犯の結果回避義務違反を①の問題に解消し(「許されざる危険創出行為」)、故意犯と共通であり、独自の問題はないという主張もある。
しかしながら、相当因果関係説においても因果関係の起点である実行行為の危険性(広義の相当性)を故意犯・過失犯共通のものと理解してよいのか、客観的帰属論においても「故意への結果の帰属」と「過失への結果の帰属」は同じと考えてよいのか。
たとえば、介在事情の問題において、①過失犯において故意行為が介在した場合、②故意犯において過失行為が介在した場合、③故意犯において別の故意行為が介入した場合、同一基準で結果の帰属ないし因果関係を認めてよいのか、①において、故意行為による「断絶」を認める(故意行為の側からみると背後の過失行為に結果の帰属は遡及しない)見解をとったり、③において背後の故意正犯を認めない見解をとるならば(一種の遡及禁止論)、故意犯と過失犯で必ずしも共通基準で帰属ないし因果関係を判断しているわけではないことになる(なお、④過失犯において、被害者の過失行為が介在した場合に、被害者の過失を「誘発」したことを根拠に因果関係を認めるのは最決平成4・12・17「スキューバダイビング事件」)。
また、過失犯の実行行為の危険性は低いものでよいとか、過失犯=拡張的正犯概念とすると、結果的に因果関係の肯定される範囲は故意犯と過失犯と異なることになろう。
特に過失競合の場合、個々の過失行為の危険性が低くても不注意の競合が危険性を高め、全体として結果を発生させた場合、個々の過失行為との因果関係を緩やかにみとめるならば(過失の同時犯)、過失犯固有の因果関係の判断基準が考えられても不思議ではない。
しかし、それにはまず、因果関係ないし帰属の起点である過失犯の実行行為つまり結果回避義務違反の内実そのものの検討が不可欠である。
また、客観的帰属論において、過失犯における危険の引受ないし引受過失の問題を「自己答責性の原理」※として結果帰属を否定するかどうか議論される。日本の裁判例としてはダートトライアル事件(千葉地判平成7・12・13)が著名である。もっとも、この問題も結果回避義務ないし危険の配分の問題として、実行行為や違法性の次元で議論することも可能であろう(ちなみに前記裁判例は、「被害者の死亡の結果は同乗した被害者が引き受けていた危険の現実化というべき事態であり、また、社会的相当性を欠くものではないといえるから、被告人の本件走行は違法性が阻却されることになる」という。)。
※自己答責性の原理ないし危険の引受の法理
被害者が結果に対しては同意がないが、危険について同意がある場合、結果が発生しても行為者は刑事責任を負わない場合をいう。
いわば、結果発生は、被害者の自己責任として引き受けられ、構成要件ないし違法性を欠き、過失犯は成立しないとするものである。いわゆる危険社会に於ける「危険の分配」を考慮するものといえよう。
この点、学説は、「被害者の同意」に準じて理解するもの、客観的帰属論の観点から、「危険の創出」を否定するもの、「危険の実現」を否定するもの、「構成要件の射程」の範囲外とするものなどがある(高橋・前掲311頁以下参照)。