刑法思考実験室「結果回避義務違反と許された危険…過失犯の構造の再編」その1
1 はじめに
20世紀のモータリゼーション社会、さらに公害薬害事故の背景とした、いわゆる新旧過失論争は、1960年代から1970年代にかけて活発に実務上も学説上も議論がなされたが、80年代以降はホテル火災における監督過失論が注目されつつ、理論的には行為無価値・結果無価値論争のドグマの一環として議論され、旧過失論側の修正的理解の主張の展開により、新旧過失論争は、実質的対立点が希薄化した。他方、藤木英雄博士の提唱にかかる新過失論を前提とした危惧感説(新々過失論)の採用については、判例通説は消極的な傾向があるが、近年再評価の動きがある(船山、井田など)。立法論の動きとしては、飲酒運転にみられる悪質交通事故に対し、従前の業務上過失致死傷罪の法定刑が軽すぎるとの批判から1990年代後半から、厳罰化の立法政策の中心として、危険運転致死傷罪が刑法上新設され、さらに過失自動車運転致死傷罪も新設され、自動車交通事故中心に厳罰化とともに新たな解釈上の問題点が生じている。本論考は、新旧過失論争の今日的理解、特に結果回避義務違反と許された危険の関係をスケッチしつつ、立法による過失犯の結果的加重犯化から生じる過失犯の構造の再編の展望について若干の検討を試みたい。
2 結果予見義務と結果回避義務
新旧過失論争は、過失を基礎づける注意義務という観点からみれば、結果の予見可能性・予見義務を重視するか(旧過失論)、結果の回避可能性・回避義務を重視するか(新過失論)の対立であった。前者は行為者の心理的な状態である意思の緊張を欠いたことに着目するものであり、後者は行為の外部的な結果回避措置の欠如に着目するものである。※多発した自動車事故における過失犯処罰制限の基準として、結果回避義務を重視する新過失論が有力となり、行為無価値を重視するドイツの学説の影響もあり、日本においても判例実務及び多数説となった。※※
犯罪論体系の構造の観点から見ると、旧過失論は、故意・過失は責任形式(責任要素)として異なるが、構成要件、違法性は同じであるという把握であり、新過失論は、故意・過失は違法ないし違法類型たる構成要件要素であり、構成要件、違法性は異なると把握するものである(前者は、古典的な客観的犯罪論体系ないし結果無価値を重視する見解、後者は主観的違法要素ないし主観的構成要件要素を肯定する現代的折衷的な犯罪論体系ないし行為無価値を重視する見解といえる。しかし、修正旧過失論の登場でこの観点からの区別は曖昧にならざるをえないし、重要なのは過失を基礎付ける注意義務の具体的内容と認定方法そのものであり、行為無価値・結果無価値といった抽象的な体系論争は無益である。)。
他方、結果回避義務を重視する見解でも従来の結果予見義務を不要とする見解(例えば、結果予見可能性を結果回避義務の前提とし、予見の程度を危惧感でたりるとし、危惧感を払拭するだけの結果回避措置を要求し、結果回避義務を課す危惧感説 藤木、板倉など)は少なく、両者を考慮し過失を「結果の予見・回避可能であるにもかかわらず、結果の予見・回避をしなかった」と理解し、注意義務ないし注意能力の基準を一般人・通常人を上限とし、行為者の注意能力をも考慮する折衷的な見解(客観的注意義務違反=客観的過失【違法過失ないし構成要件的過失】と主観的注意義務違反=主観的過失【責任過失】の二元説)がむしろ日本の新過失論の多数的見解である(団藤、大塚など。)。※※※
※判例の傾向
結果回避義務違反を過失の内容として重視したリーディングケースとして弥彦神社事件(最決昭和42・5・25刑集21・4・584)がある。
※※結果回避義務と不作為犯の作為義務との関係
旧過失論からは、結果回避義務は、過失犯を不作為犯とするものであるとか、故意犯にも結果回避義務が要請されており、過失犯固有の問題ではないとの批判がある(ホテル火災などを過失不作為犯とし、結果回避義務を作為義務の問題とする町野など。なお、山中など客観的帰属論の観点から結果回避義務を理解しようとする見解もある。)。
確かに、過失の不作為結果犯においては結果回避義務と作為義務は抽象的理論的には区別しうるとしても、実質上同じとみることができるし(例えば、監督過失における安全体制確立義務違反=スプリンクラーの不設置など防火設備・訓練の不備)、故意の不作為結果犯における作為義務は結果回避義務とみることもできる(例えば、プールの監視人の遊泳者救護義務)。
他方、故意の作為結果犯における結果回避義務は故意の作為にでない不作為義務であるが、過失の作為結果犯における結果回避義務は、結果回避措置を怠った作為にでない不作為義務であり、結果回避措置との関係で言えば、作為義務をうちに含んでいる。このため、過失の作為結果犯は、結果回避措置を欠いた作為義務違反を伴う不作為義務違反という意味での結果回避義務違反として理解できることになり、この点においては、故意の作為犯と異なる過失の作為犯固有の問題(いわば不作為をうちに含んだ作為犯。ただし、過失の作為犯が不作為犯そのものなってしまうわけではない。この場合は一種の不作為と作為の複合構造といってもよいかもしれない。)と理解することができる。すなわち、過失犯の結果回避義務違反は、故意犯における結果回避義務違反と一部重なりつつ、故意の作為結果犯との規範構造の比較において、なお固有の意義を有するのであり、この意味で過失犯の客観的側面は故意犯とは類型的に異なる要素をもつといえよう。
たとえば、作為の自動車事故において、運転行為という作為そのものが禁止される不作為義務が要求されているのではなく、安全でない(結果回避措置をともなわない、つまり安全な措置を行うべき作為義務違反をうちに含んだ)=許されない危険な運転行為の不作為義務が要請されているのであり、安全運転行為は禁止されない。これが許された危険の法理であり、裏返していえば、結果回避義務に違反した行為は、許されない危険な行為である。これが、新過失論における過失犯の実行行為(の客観面)と解すべきであろう。それゆえ、後述する平野博士などが主張する修正旧過失論は、過失犯の「実行行為」を「実質的に許されない危険な行為」と理解し、結果回避義務を「過失」概念として把握しないだけで、実質上は新過失論と解してよいであろう。
※※※注意義務の基準と責任としての過失
注意義務の基準としては、折衷説のほか一般人を基準とした客観説、行為者を基準とした主観説があるが、前者の立場でも行為者の同一事情のもとにおかれた一般人として注意義務を考えたり(西原)、生理的なものは主観的基準、規範心理的なものは客観的基準とする見解(能力区別説 平野)もある。二元説に対しては、新過失論を前提にすると過失犯は故意犯と違法性ないし構成要件が異なるのであり、過失犯固有の責任というのはないとの批判がある(井田など)。もっとも、この見解も、行為者本人の事情を違法性の意識の可能性や期待可能性の次元で考慮するのであり、二元説と実質的差異は小さいというべきであろう。ただ、理論的にみて、二元説は、旧過失論が過失を責任要素として把握した点を、切り捨てるのではなく、なお重視するものであり、過失固有の責任非難、つまり行為者の間接的な反対動機形成可能性(行為に出ないことの動機付け可能性)ないし間接的な反規範的人格態度(いわゆる人格責任論 団藤、井上正治など)を基礎づける要素として責任としての過失を理解し、結果回避義務違反を中心とする違法ないし構成要件要素としての過失と区別して理解するものと思われる。この考えは、違法は一般人を基準とした当為であり、責任は行為者を基準にした可能性の問題とするいわゆる行為無価値論ないし違法二元論と整合的といえよう。ただし、これは一種の体系ドグマの問題で有り、前述した行為者の事情を考慮する客観説や能力区別説をとり、構成要件を違法有責類型ないし犯罪類型(個別的な原則的犯罪成立要件・刑法各論上の個別の犯罪成立要件)と考えれば、構成要件(違法)と責任に分断して「過失」概念をあえて二元化(客観的過失と主観的過失の二要件として理解)する必然性はないともいえよう(実務的には単純な一元的理解で十分である。この二元説の理論的な曖昧さがいかにも日本的見解ともいえるが、ドイツの学説が故意過失を違法ないし構成要件にシフトして責任説に移行し、責任論が空洞化する嫌いがあることへのアンチテーゼとも評価することもできる。故意と同様に過失においても「本籍」は責任あるという理解なのかもしれない。なお、認識なき過失については意思責任を問えないではないかとことが従来議論されてきたが、今日の通説は認識なき過失も責任を問えるという理解に立つ。末尾の参考文献参照)。
※※※※一般人(当該行為で要求される通常人)と行為者の能力との関係
具体的状況をふまえ、行為者の知識能力と通常人の立場を考慮した具体的な判断は、客観説、折衷説でも明瞭でないところがある。客観説・折衷説に対する批判である行為者の能力が通常人より高い場合に免責してよいかは確かに一つの問題であるが、能力区別説のように截然と区分できるかどうかも微妙で有り(高橋則夫・刑法総論220頁は、「行為者の生活領域に属する一般人」、たとえば、自動車運転手一般、医師一般などを前提に行為者の認識・能力を考慮するというが、一般人と行為者の能力関係はやはり明瞭でない)、結果的に総合衡量判断にならざるをえないのではなかろうか。
薬害エイズ帝京大ルート事件(東京地判平成13・3・28)
「本件における当裁判所の判断は、以上詳細に説示してきたとおりであるが、便宜その骨子を再説すれば、次のとおりである。
まず、本件における結果予見可能性の点についてみると、ギャロ博士、モンタニエ博士らのウイルス学的研究等により、本件当時、エイズの解明は、目覚しく進展しつつあった。しかし、両博士を含む世界の研究者がそのころ公にしていた見解等に照らせば、本件当時、HIVの性質やその抗体陽性の意味については、なお不明の点が多々存在していたものであって、検察官が主張するほど明確な認識が浸透していたとはいえない。エイズやHIVに関する知見が確立されるまでには種々の曲折が存在したものであって、この間の事情を無視して、現時点において正しいとされている知見の発表経過のみを追って本件当時のあるべき認識を決定したり、また、そうした知見が最初に発表された時点でそれが事実として明らかになったなどと断定したりするのは相当でない。帝京大学病院には、ギャロ博士の抗体検査結果やエイズが疑われる二症例など同病院に固有の定法が存在したが、これらを考慮しても、本件当時、被告人において、抗体陽性者の「多く」がエイズを発症すると予見し得たとは認められないし、非加熱製剤の投与が患者を「高い」確率でHIVに感染させるものであったという事実も認め難い。検察官の主張に沿う証拠は、本件当時から十数年を経過した後に得られた関係者の供述が多いが、本件当時における供述者自身の発言や記述と対比すると看過し難い矛盾があり、あるいは供述者自身に対する責任追及を緩和するため検察官に迎合したのではないかとの疑いを払拭し難いなどの問題があり、信用性に欠ける点がある。被告人には、エイズによる血友病患者の死亡という結果発生の予見可能性はあったが、その程度は低いものであったと認められる。このような予見可能性の程度を前提として、被告人に結果回避義務違反があったと評価されるか否かが本件の帰趨を決することになる。
次に、結果回避義務違反の点についてみると、本件においては、非加熱製剤を投与することによる「治療上の効能、考課」と予見することが可能であった「エイズの危険性」との比較衝量、さらには「非加熱製剤の投与」というほかの選択肢との比較衝量が問題となる。刑事責任を問われるのは、通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば、およそそのような判断はしないはずであるのに、利益に比して危険の大きい意医療行為を選択してしまったような場合であると考えられる。他方、利益衝量が微妙であっていずれの選択も誤りとはいえないというケースが存在することも、否定できあい。非加熱製剤は、クリオ製剤と比較すると、止血効果に優れ、夾雑タンパク等による副作用が少なく、自己注射療法に適する等の調書があり、同療法の普及を相まって、血友病患者の出血の後遺症を防止し、その生活を飛躍的に向上させるものと評価されていた。これに対し、非加熱製剤に代えてクリオ製剤を用いるときなどには、血友病の治療に少なからぬ支障を生ずる等の問題があった。加えて、クリオ製剤は、その入手についても困難な点があり、また、止血を求めて病院を受診した血友病患者について補充療法を行わないことは、血友病治療の観点から現実的な選択肢とは想定されなかった。このため、本件当時、我が国の大多数の血友病専門医は、各種の事情を比較衝量した結果として、血友病患者の通常の出血に対し非加熱製剤を投与していた。この治療方針は、帝京大学病院に固有の定法が広く知られるようになり、エイズの危険性に関する情報が共有化された後も、加熱製剤の承認供給に至るまで、基本的に変わることがなかった。もとより、通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれた場合にとったと想定される行動については、規範的な考察を加えて認定判断されるべきものであり、他の血友病専門医がとった実際の行動をもって、直ちにこれに置き換えることはできないが、それにしても、大多数の血友病専門医に係る以上のような実情は、当時の様々な状況を反映したものとして、軽視し得ない重みを持っていることも否定できない。以上のような諸般の事情に照らせば、被告人の本件行為をもって、「通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば、およそ非加熱製剤の投与を継続することは考えないはずであるのに、利益に比して危険の大きい治療行為を選択してしまったもの」であると認めることはできないといわざるを得ない。被告人が非加熱製剤の投与を原則的に中止しなかったことに結果回付義務違反があったと評価することはできない。
したがって、被告人に公訴事実記載のような業務上過失致死罪の刑事責任があったものとは認められない。」
本判決に対して、予見可能性は、行為者の立場、結果回避義務違反については「本件当時の被告人の立場」に「通常の血友病専門医」において判断したものといわれる(高橋・前掲221頁)。
また、結果回避義務違反を否定する本判決においては、危惧感説の立場からの批判(「厚生省エイズ研究班長として国内外の最新のもっとも詳しい情報に接し、最高権威者として、血友病の基本的治療方針を決定しうる指導的立場にいるような専門医としての平均人」を基準とすべきとするのは板倉、行為者の認識可能性を基礎として「通常の規範的な行為選択をする血友病専門医ならどのような行為をするだろうか」という視点から評価すべきとするのは高橋則夫)がある。しかし、危険の衡量判断と客観説に行為者の事情を加味した判断自体、まさに「許された危険」の法理(結果回避義務違反の存否)の観点からの判断であって、行為当時の事前判断の見地から過失犯の成立を否定するものである。事後的にみて結果が回避可能だったはずだという観点から結果回避義務違反つまり過失犯は認められないということであり、理論的枠組みとしては支持すべきものである。本件被告人の立場・地位ならば、予見・回避しえた、いやむしろ予見・回避すべきであったのだという判断は、事後的な応報の言い換えか、実質的に注意義務に関する主観説にたって、非加熱製剤の投与の原則中止という高度な注意義務を課すものであり、結果の予見可能性の程度と結果回避義務の相関関係、バランスを無視するものであろう。生じた結果の重大性だけを根拠として結果回避義務違反が緩やかに認められるわけではないのである。なお、本件は、予見可能性論の問題として、具体的予見可能性ないし高度な予見可能性がないという枠組みで理解することも可能であろう。