刑法思考実験室「結果回避義務違反と許された危険…過失犯の構造の再編」その2
3 修正旧過失論と結果回避義務違反…訴因と過失と実行行為
過失犯の訴因の特定は、例えば自動車交通事故に関しては、実務上「被告人は、平成※※年※月※日、午後3時20分ごろ、東京都港区※※3-1-1先路上A交差点において、自己の運転する普通乗用自動車で進入し右折する際、右側横断歩道を通行する歩行者Bを注視し、徐行又は一時停止した上で右折すべき自動車の運転に必要な注意義務があるのにこれを怠り、漫然と時速40キロメートルの速度で右折した過失により、右側横断歩道を通行する歩行者Bに衝突し、同人に脳挫傷を負わせ死亡させたものである。」などと記載される。
新過失論によれば、「A交差点において、自己の運転する普通乗用自動車で進入し右折する際、右側横断歩道を通行する歩行者Bを注視し、徐行又は一時停止した上で右折すべき自動車の運転に必要な注意義務があるのにこれを怠り」の部分が結果回避義務違反に当たる事実である。「漫然と」の部分は意思の緊張を欠いたこと、つまり結果予見義務違反に当たる事実である。「時速40キロメートルの速度で右折した」との部分は、具体的な過失の実行行為の態様(作為)を特定している。
注視・徐行・一時停止義務は外部的注意義務(結果回避義務)であることは明白である。しかし、旧過失論からすれば、内心の結果予見義務違反という過失を直接示すものではないから、過失に当たる直接の事実そのものではないことになろう(せいぜい意思の緊張を欠いたこと=予見義務違反を推認・徴表させる間接事実・情況証拠として意味をもたすだけである。)。さらに旧過失論では、過失犯の実行行為として本来意味をもつのは「時速40キロメートルの速度で右折した」部分だけである。
そうだとすると、注視・徐行・一時停止義務は本来過失そのものに当たる事実ではないので、訴因の特定としては不要であるはずであり、裁判所が別の結果回避義務(たとえば、「対面信号が赤色点灯であったことを確認すべき注意義務があるのにこれを怠り」)を認定する場合でも予見義務違反の過失そのものの変更ではないので訴因変更は不要となることになろう(なお、判例は訴因変更を必要とする。)。
しかし、内心の状態を具体的に示すことは困難であり、過失犯の実行行為の客観面の限定、特定が弱いということは、証明対象自体が不明確になってしまうし、不意打ち防止という観点から妥当ではない。そこで、旧過失論にたちつつ、過失犯の実行行為(構成要件該当行為)をアメリカの模範刑法典を参考に「実質的に許されない危険な行為」と理解し限定をこころみる見解が主張された(修正旧過失論 平野・刑法総論Ⅰ193頁以下参照)。この実質的な危険性の判断基準は客観的予見可能性としつつ、上記訴因における結果回避義務違反の部分と「時速40キロメートルの速度で右折した」との部分をあわせて「実質的に許されない危険な行為」を意味するものと理解するのである※。
危険性による限定により過失犯の実行行為の限定を図るものであるが、これは結果回避義務違反行為と同じ意味であり、結局結果回避義務違反を過失概念に含めないだけで、この見解は実質的に新過失論と異なるものではない。新過失論も結果回避義務違反を「許された危険」の裏返し、つまり「許されない危険」行為と理解しているからである(なお、平野博士は、これとは別に違法阻却事由としての「許された危険」は、法益考量により正当化されるとして、救急車の制限速度違反や外科手術の傷害行為の正当化を指摘する。平野・前掲199頁)。
※実質的に許されない危険な行為の訴因における表現
判例が通常用いている「30キロに減速すべきであったにもかかわらず、その注意を怠り」という表現は、「『30キロに減速すべきであった』というのは、『50キロで走行すれば実質的に危険であった』ということ(及び30キロに減速して結果の発生を防止することが可能であったという結果防止の可能性)を表現したもの」であり、「50キロで走行することがどの程度の実質的危険をはらむものであるかを、ことばで示すことはかなり困難」であるから、「『30キロに減速すべきであった』ということにより、30キロにすれば危険でなかったこと、その裏面として50キロでは危険であったこと、を示すことができる」という(平野・前掲200頁)。しかし、上記訴因の表現からは、結果回避の注意義務(30キロの減速義務)を怠ったと理解するのが素直であるし、危険性の表現としても、「30キロに減速可能にもかかわらず、減速せずに危険な50キロの速度で走行し」と表現することもできるのであるから、このような理解の仕方は、言葉遊び的で強引すぎる嫌いがある。
なお、自動車交通事故類型では、結果回避義務違反しか特定されていないようにみえるが、「注視すべき」義務は予見義務を含んでいるとみることがきるし、結果回避義務と結果予見義務双方を要求する二元説と矛盾するものではない。
以上より、過失犯においては、結果回避義務違反行為(客観的注意義務違反行為・実質的に許されない危険な行為)が過失の実行行為であるという理解自体、新過失論・修正旧過失論において共通理解といってよいであろう。※
※修正旧過失論における過失犯の体系構造
過失そのものは、責任要素として結果予見義務違反としつつも、一般人を基準とした主観的構成要件要素としての過失とし、客観的構成要件要素としての実行行為を「実質的に許されない危険な行為」=客観的注意義務違反・結果回避義務違反行為として、構成要件段階から「過失」を位置づける見解(前田、西田など)、さらに行為者基準とした結果予見義務違反を責任過失と構成要件的過失(一般人を基準とした結果予見義務違反)に二分する修正旧過失論からの二元説(曽根など)がある。なお、旧過失論を維持しつつ結果回避可能性・結果回避義務を責任の問題と解する見解もある(内藤)。
さて、訴因の特定と関連して、複数の結果回避義務違反(前方不注意、減速義務違反など)がある場合に過失の個数又は過失の実行行為の特定の問題ということが議論されている。これには、結果発生の直前の行為のみを過失の実行行為として考え、その時点での結果回避可能性・結果回避義務違反を認定する直近過失一個説と直前の行為だけでなく結果と相当因果関係のある結果回避義務違反行為すべてを過失の実行行為と考える過失併存説がある。直前行為の時点で結果回避可能性が否定されると過失犯は成立しないというのは不都合であり、かつ直近行為に限定する理論的根拠もない以上(故意犯すら結果と行為との時間的場所的近接がない離隔犯がみとめられている)、過失併存説が妥当であろう(通説)※※。
※※ 実行行為の遡及と結果回避可能性と危険性
現実の過失の実行行為の認定構造プロセスからすると、まず、①結果から直近の行為の結果回避可能性・回避義務違反を吟味し、②否定される場合は遡及して別の行為の結果回避可能性・回避義務違反を吟味する。この作業を繰り返すと結果からどこまでも遡及するようにみえるが、過失併存説に立てば、相当因果関係ないし客観的帰属論の観点から、結果発生の危険性(広義の相当性)または危険の創出・増加の観点からの制限がかかる(後述)。つまり、結果発生の危険性がない行為には遡及しない。これは結果回避義務違反の危険性による限定の一場面である。この観点からみると、直近過失一個説は、結果回避義務違反行為を結果発生の高度かつ現実的な危険性を要求して限定し、実行行為の遡及的認定を禁止する見解ともいえよう。そうだとすると、過失の実行行為の特定の問題の所在は、結果回避可能性と危険性の有無との均衡点をどの時点に求めるか(どこまで遡及的認定を許容するか)といってよい。
さらに過失の実行行為については、別の角度、たとえば、共犯論の観点から、故意の教唆・幇助に対応する過失の教唆・幇助的行為は、過失の正犯であるとして、故意犯では制限的正犯概念が妥当するのと異なり、過失犯においては拡張的正犯概念(統一的正犯概念)が妥当するかどうかが問題となる。
過失=拡張的正犯説は日本では少数であるが(山中敬一など。逆に過失犯にも故意犯と同様に制限的正犯概念が妥当するというのは平野など)、過失の共同正犯を否定し、過失同時犯を広く認める見解は、実質的にこの考えに接近する。過失犯は「定型性がゆるい」(団藤など)との評価も過失の実行行為が故意の実行行為に比べて緩やかに認定されることを前提にしているといえる(故意犯より危険性が低い場合でもよいとするのは前田、故意の未遂犯と同様の危険性は不要とするのは内藤)。
しかし、少数説のように共犯との関係で、過失犯に共犯なしとして広く過失正犯を認めるべきなのか、それとも故意犯と同様に過失の共犯ないし過失の制限的正犯概念から過失正犯においても特有の限定(危険性ないし行為支配)を認めるべきなのか。それとも結局、結果回避措置の態様の何らかの限定、つまり結果回避義務の具体的態様の限定があるのか(結果発生の直接防止に限定されるか間接防止も含むか)の問題と理解すべきなのか。具体的には監督過失論・過失同時犯・過失の共同正犯論の解釈に収斂するのかもしれない(注意義務の態様と過失の競合の問題)。