刑事手続きの基礎「罪体と犯人性」(下)その3 | 刑事弁護人の憂鬱

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(3)アリバイ立証

ラテン語に由来するアリバイ(alibi)とは、被告人が、犯罪実行時に、犯行現場以外の場所にいたという事実、あるいはその主張、立証を指し、現場不在証明ともいう(小西秀宣「アリバイの主張」平野=松尾編・新実例刑事訴訟法Ⅲ 153頁参照)。アリバイ立証は、被告人の犯人性、すなわち被告人の犯行現場の存在性を積極的に否認するものであり、この立証が成功すれば、被告人は犯人ではありない(犯人性について合理的疑いが生じる)ことになる。よって、アリバイの成立は、決定的な消極的情況証拠である(いわゆる「本質的不一致」 司法研修所編・「情況証拠の観点から見た事実認定」44頁以下参照。)

アリバイ立証は、被告人の犯人性を否認するものであるから、その主張・立証は通常被告人・弁護人側からなされる。アリバイ立証についても厳格な証明が必要とするのが判例・通説であるが※、アリバイの裏付けが書証など伝聞証拠となる場合、非伝聞ないし伝聞例外で用いるか、人証で立証することになる(ただし、アリバイの証拠が被告人の供述しかない場合は、立証は非常に困難であり、アリバイの主張が審理の後半に主張されたり※※、親族等近親者の証言による裏付けの場合、被告人供述や証言の信用性評価が低くなる可能性もある。アリバイ工作が疑われることがあるからである。)。




※厳格な証明不要説(弾劾説)

 被告人・弁護人側のアリバイ立証は、ある意味では、検察官側の有罪立証を争う弾劾証拠(法328条参照)としての性格をもつから、伝聞法則の適用を認める厳格な証明は不要であるとする見解もある(田宮裕・刑事訴訟法新版291頁参照)。これに対しては、理屈としては、アリバイの裏付け書証を犯人性の弾劾証拠として用いることは可能であるが、アリバイの事実自体を積極的に立証する場合は、厳格な証明を要するというべきではないかとの批判がある(小西・前掲156頁参照)。



※※アリバイ事前通告制度とアリバイ主張の制限

 アメリカ法には、弁護側のアリバイ主張は審理の冒頭において主張されなければならないという事前通告制度がある(小西・前掲157頁)。

日本の刑事手続きでは、アリバイ主張の特別な制限はないが、判例では「一般に、あまりに遅れたアリバイの主張及び立証は、それ自体不自然で疑わしいといわれてもやむをえない」とするものがあった(最判昭和59・4・24)。つまり、アリバイ主張及びこれを裏付ける供述の信用性について疑問が生じるということである。他方、公判前整理手続きが実施された事件では、同手続きで主張されない場合、事後公判で主張することに制限がかかる(「やむを得ない事由」が必要とされる。法316条の32第1項。もっともこれはアリバイだけに限定されるものではない。)。この場合のアリバイ主張について、時期に遅れた主張、供述としてこれまで以上に信用性について疑わしいとされやすくなるという見解もあるが(波床昌則「アリバイの有無(2)」・刑事事実認定重要判決50選 下 補訂版300頁)、「やむを得ない事由」をクリヤーした場面で遅れた主張・供述の信用性を疑うというのは一種の予断であろうし、主張時期によって安易にアリバイ主張を排斥することは、誤判防止の観点から妥当でないというべきである。


では、被告人・弁護人側が行うアリバイの立証の程度として、アリバイの存在について、有罪判決で要求される程度と同様に「合理的な疑いを越える」※ことまで要するか。アリバイの存在は被告人が犯人でないこと、つまり犯罪事実の不存在を推認させる。そして、犯罪事実の存在及びその裏面としての不存在については、検察官に実質的挙証責任があり、アリバイの立証につき被告人に実質的挙証責任があるわけではない。すなわち、被告人・弁護人側が行うアリバイ立証の程度は、アリバイについて単なる可能性ないし推測の程度を越えて「ある程度の蓋然性」または「現場にいなかったかもしれない合理的な疑い(一定の合理的根拠を有する疑い)」が認められれば足りる。つまり、被告人が犯行時、犯行現場に存在しなかったかもしれない合理的な疑いが生じれば、被告人が犯人であることについて「合理的疑いを越える」程度に至らないので、有罪判決をすることができなくなる(小西・前掲163頁以下参照)。※



※「合理的な疑いを越える」程度の証明

 被告人が有罪判決を受けるためには、犯罪事実について「合理的な疑いを越える」程度の証明(proof beyond reasonable doubt アメリカ法的表現)、「確実性に接着する蓋然性」の証明(ドイツ法的表現)、「真実の高度な蓋然性」「通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信」(最判昭和23・8・5)または「高度に確実で、合理的疑いを容れない程度」(最判昭和45・7・31)が必要と解されている(小西・前掲162頁参照)。換言すると「これは、神ならぬ人間が判断することだから100パーセントの真実までは要求されないが、通常人なら誰でも疑問を抱かない程度の確実さは必要だ」という意味である(田宮・前掲303頁)。

なお、アメリカ法では民事法での証明の程度は、これよりも緩く「証拠の優越」(preponderrance of evidence)の程度でよいといわれる。ここでいう証拠の優越とは、肯定証拠が否定証拠を上回る程度の証明で有り、一応確からしいという推測の程度より高いが、「合理的な疑いを越える」程度よりは低い心証である(石井一正・刑事実務証拠法第5版530頁参照)。

そして、証明が「合理的疑いを越える」程度に達しない場合は、被告人を有罪とすることができない。これを「疑わしきは被告人の利益に」(in dubio pro reo)または「無罪推定の原則」という(判例・通説もこの原則を認める。たとえば、最判昭和43・10・25など。直接の明文はないが、英米法やフランス人権宣言の歴史的沿革、人権B規約、憲法31条のデュープロセスの趣旨を根拠とするのは田宮・前掲301頁。)。

他方、主要事実が真偽不明の場合に裁判所の判断により一方当事者が被る不利益・負担(立証活動が終わった後の結果責任)を実質的挙証責任(英米法burden of proof,ドイツ法Bweislast.民訴法の分野では「証明責任」という訳語を使うのが今日では一般であるが、「立証責任」「挙証責任」という訳語例もある。)というそして、刑事手続きでは無罪推定の原則から、犯罪事実が真偽不明(ノン・リケット)の場合、被告人は無罪となるので、実質的挙証責任は、被告人ではなく検察官にある、つまり検察官負担の原則と解される(判例・通説)。換言すれば、刑事手続きにおける挙証責任論は無罪推定論の裏返しである(田宮・前掲301頁参照。民事手続きでは原告被告間の実質的挙証責任=証明責任の分配が問題となるが、刑事手続きでは原則として問題とならない。)。例外的に犯罪成立阻却事由等被告人に実質的挙証責任が転換されるかどうかについては争いがあり、詳細は別の機会に譲る。


なお、ちなみに実質的挙証責任と対比される形式的挙証責任とは、実質的挙証責任を負う当事者が不利益を回避するために行う立証行為の負担・手続き面の負担である(平野博士は、形式的挙証責任とは当事者が、どの程度に訴訟追行の責任を負うかの問題、つまり完全な当事者主義の構造のもとでは、当事者だけが訴訟追行の責任を負い、裁判所は当事者が提出した証拠だけに基づいて判断すればよいという形で、形式的挙証責任を証拠収集提出に関する責任を当事者におわすか裁判所に負わすかの問題とする。平野・刑事訴訟法188頁。)。しかし、形式的挙証責任は、実質的挙証責任を負担する当事者の手続き・立証活動への反射にすぎず、独自の意義をもたないので(刑事手続きでは検察官負担の原則が検察官の立証活動に反射投影されるだけなので、この意味で原則、当事者間の移転はない)、今日の学説(民訴法学説も含む)は、この概念の効用はないという(田宮・前掲303頁以下)。他方、団藤博士は、実体形成の進展(裁判官の心証形成)に応じて各当事者が証拠を提出する責任を形式的挙証責任と呼ぶ(団藤・新刑事訴訟法綱要7訂版240頁。)。すなわち、「たとえば、検察側の証拠が裁判所に黒の心証をあたえたらしいときは、被告人側でこれを破る証拠を出さないかぎり有罪になるであろう。その段階では、被告人側に形式的挙証責任があるといえる。ところが被告人が自己に有利な証拠を出し、裁判官の心証を動揺させてこれを灰色にしたきは、そのままでは有罪の判決はのぞめないから、検察官はさらに訴追側としての証拠を出さなければならない」という。しかし、今日の学説は、むしろ団藤博士のいう形式的挙証責任という概念ではなく、手続きの進展によって、当事者間を移転する「事実上の立証の必要」(事実的挙証責任)という概念で説明している(田宮・前掲304頁以下)。なお、団藤・前掲240頁注は「実質的挙証責任」=「説得責任」、「形式的挙証責任」=「証拠提出責任」と理解するが、英米法における「証拠提出責任」の意味は陪審制度に由来する特殊な概念であり、団藤博士のいう形式的挙証責任あるいは事実上の立証の必要と同じ概念ではない(詳細は、田宮・前掲305頁参照)。


では、被告人・弁護側がアリバイ立証に失敗した場合(前述した程度に証明できなかった場合も含む)、犯人性の認定はどうなるか。

被告人に犯人性について実質的挙証責任があるわけではないから、アリバイ立証の失敗が直ちに犯人性の肯定となり、有罪判決になるわけではない。検察官の犯人性に関する積極的情況証拠による立証が不十分な場合あるいは他の消極的情況証拠の存在により、被告人・弁護人側のアリバイ立証が失敗しても被告人が犯人であることについて「合理的な疑いを越える」程度の高度な証明ができなければ、被告人は無罪となる(証言の信用性否定により大阪高判平成6・1・17、犯人識別供述の信用性否定により東京高判平成8・1・17など)。

そうすると検察官の積極的情況証拠による立証の程度により、反証であるアリバイ立証の程度も変化する。たとえば、積極的情況証拠が弱い場合、アリバイの事実の裏付けが弱くても、総合的にみて犯人性の立証が十分でないとして無罪となる場合がありうるし、積極的情況証拠が強く十分な場合は、検察官立証を動揺させるためアリバイ立証は裏付けのしっかりした立証が必要になる場合もある。よって、積極的な有罪立証の程度との相関関係によりアリバイ立証の程度も定まるといえなくはない(木谷・前掲75頁、波床昌則「アリバイの有無(1)・刑事実認定重要判決50選 下 補訂版286頁から287頁参照)。  

ただし、積極的情況証拠が十分でも、弁護側のアリバイ立証が前述したとおり推測を越えて一定の合理的根拠を有する程度、ある程度の蓋然性まで至った場合、総合的にみれば、積極的な事実とアリバイ事実は相互に矛盾し、結局、犯人性に関して、被告人が犯人でないことについて合理的な疑いが残り、有罪判決できないことはいうまでもない。このような場合、検察官としては、アリバイ事実の不存在について合理的な疑いを越える程度まで、つまりアリバイの積極的な否定を立証する必要があろう。検察官がアリバイの不存在を積極的に立証にできた場合、そのアリバイ不成立の事実を被告人の犯人性の肯定する情況証拠としてあるいは被告人の供述の信用性を低下させる証拠として用いられ被告人に不利に働くこともあるが、これにより被告人が有罪判決を受けても、実質的挙証責任の問題ではないのは当然である。



主要参考文献

小野清一郎・犯罪構成要件の理論(1953年 有斐閣)

団藤重光・新刑事訴訟法綱要7訂版(1967年 創文社)

平野龍一・刑事訴訟法(1958年 有斐閣)

田宮裕・刑事訴訟法新版(1996年 有斐閣)

小林充=香城敏麿編・刑事実認定(下)(1992年 判例タイムズ社)

平野龍一=松尾浩也編・新実例刑事訴訟法Ⅲ(1998年 青林書院)

小林充=植村立郞編・刑事実認定判決50選下補訂版(2007年 立花書房)

石井一正・刑事実務証拠法第5版(2011年 判例タイムズ社)

司法研修所編・情況証拠の観点から見た事実認定(1994年 法曹会)