刑法思考実験室「共犯の因果関係・処罰根拠論の射程」(下) | 刑事弁護人の憂鬱

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刑法思考実験室「共犯の因果関係・処罰根拠論の射程」(下)





 承継的共犯と共犯からの離脱



(2)共犯からの離脱とは、共犯関係が成立後、共犯者の一人が離脱し共犯関係を解消した場合、事後、他の共犯者の行った行為について離脱した者は責任を負わない場合をいう。

   例えば、窃盗を共謀したABCのうち、Aが翻意し、犯行に加わらない旨BCに話し、BCがこれを了承し、BCだけで窃盗を実行した場合、Aは窃盗の共犯(共同正犯)の罪責を負わない。判例通説によれば、実行の着手前、着手後の場合にわけ、前者では離脱の意思の表明とその了承というゆるやかに離脱を認めるが(ただし、首謀者など重要な関与をした場合は離脱は限定的傾向)、後者では、積極的な犯行防止措置をとるなど厳格な要件のもとで離脱を認める。※ 





※共犯の中止未遂から離脱論へ

 共犯からの離脱論は、実行の着手後、そもそも共犯者の一人が中止行為を行った場合に中止未遂の規定の適用があるかの問題から議論された。中止行為が成功せず、他の共犯者により既遂結果が生じた場合、中止行為を行った共犯者に責任を負わすのは酷ではないか、中止未遂の規定を準用して免責できないかが問題とされたのである。しかし、離脱者の免責の問題は、着手前においても、着手後の継続犯などの形態で未遂処罰規定のない場合でも問題となるため、広く独自の免責法理として、判例・学説上、共犯からの離脱論が形成されていった。具体的な判例、離脱類型については、代表的な刑法総論の教科書を参照のこと。





 本稿のテーマである共犯の因果関係、因果的共犯論という観点からは、共犯からの離脱とは、共犯の因果関係が切断され、既遂結果について責任を負わない場合と解することになる。実際に通説は、着手後の離脱要件として、「因果関係の切断」を強調する(前田、西田など)。承継的共犯が事後的な共犯関係の成立による責任の範囲が問題となるのに対して、共犯からの離脱は事後的な共犯関係の解消による免責の範囲が問題となるのである。どちらも生じた結果に対する共犯の因果関係の射程の問題といってもよいであろう。

 しかし、「因果関係の切断」について、明確な基準が定立されているわけではなく、心理的因果関係、物理的因果関係の除去、着手前と着手後の態様の違いなど整理されなければならない課題は多いが、この問題は別稿で論じ、本稿では割愛する。ただ、幇助については、抽象的には幇助の因果関係でいわれる促進関係の基準の裏返し、つまり心理的または物理的な促進効果の解消を基準とするとの命題を指摘するとどめる。





5 処罰根拠論の射程



 () 学説の分類と適用対象範囲



 本来、共犯の処罰根拠論は、ドイツ学説において、主として教唆・幇助(狭義の共犯)の処罰根拠とし、従属形式(要素従属性)の理論的根拠を提供する傾向にあった。日本の学説では、戦前は共犯独立性説が共犯の固有の処罰を主張し(共犯固有犯説)、共犯従属性説が共犯は正犯から可罰性を借り受けて処罰されると主張された(共犯借受犯説)。ところが、日本では戦後、平野博士の結果無価値論・行為無価値論の理念モデルの観点から処罰根拠論(責任共犯論と因果的共犯論との対比)が意識・再構成され、これを発展させる見解が有力に主張されたが(大越、西田、高橋など)、こういった分析に批判も多い。※

 また、処罰根拠論の適用範囲も狭義の共犯だけでなく、共同正犯を含む広義の共犯にまで及ぼすことも有力に主張されている(共犯の因果性(因果関係)は共犯処罰の出発点とする。平野、内藤など)

 

※ 学説の分類としては、①責任共犯論・因果的共犯論の二分類、②責任共犯論・違法共犯論・因果的共犯論の三分類、③②の分類に因果的共犯論を純粋惹起説・修正惹起説・混合惹起説に分ける五分類など複雑な傾向にある。論者によって分類の仕方、定義が異なるのはやっかいであるが、私見なりに咀嚼すると、広い意味での因果的共犯論と責任共犯論の区別は、正犯と同じ結果惹起・法益侵害性にウェイトを置くか、法益侵害性を切り離された堕落性・犯罪者創出に置くかの違いである(①の二分類説)。違法共犯論と狭義の因果的共犯論の区別は、強いていえば前者は正犯の違法行為惹起(それは必ずしも結果惹起まで要求しない。共犯従属性説からは、正犯が実行に着手すれば、共犯は可罰的になるからである。)で足りるとみるか、あくまでも正犯の結果惹起が共犯の処罰に不可欠とみるか(実行従属性は、あくまでも共犯の未遂の問題であり、共犯の既遂責任の根拠にはならない。)の違いである(②の三分類説)。因果的共犯論内部の純粋惹起説と修正惹起説との区別は、正犯と共犯とは直接的結果惹起か間接的結果惹起かの違いであり、因果関係に違いはなく共犯は結果に因果関係を及ぼしたこと自体で処罰され、正犯が可罰的かどうかは(極論すれば、正犯が構成要件・違法・責任がなくても)無関係であるとみるか(正犯なき共犯を肯定する拡張的共犯論と結びつく。)、共犯従属性説・制限従属性説からすれば、共犯処罰は、共犯が結果に因果関係を及ぼすだけでなく、正犯の違法な結果を惹起したことが必要不可欠な要件であると理解するかの区別である(③の五分類説)。残された修正惹起説と混合惹起説の区別は実はよくわからない。混合惹起説は、共犯処罰を正犯違法と共犯違法の双方に求めるといわれているが(その意味で純粋惹起説と修正惹起説の折衷ともとれる)、修正惹起説が共犯固有の違法性を一切考慮しないとすると、形をかえた共犯借受犯説となってしまうし、修正惹起説は純粋惹起説を正犯結果違法の方向に一部従属するという意味で修正する見解と理解すると、正犯結果の違法は共犯処罰の必要条件であっても十分条件ではないと解し、正犯が違法であっても、共犯固有の違法性阻却を認め違法連帯を一部緩和して、違法の人的相対性を肯定する解釈も可能である(修正された制限従属性説)。このように理解すると修正惹起説は混合惹起説と区別をあえてする必要はないかもしれない。

 なお、共同正犯においては一部実行全部責任の法理が従来からいわれており、この法理を共犯の因果関係から説明するかどうか問題となる。たとえば、殺害の意思を連絡した共犯者ABが同時にピストルを発射し、Aの弾のみが被害者に当たり、死亡させた場合、AはもちろんBも殺人既遂の共同正犯の責任を負う。個別の行為からみれば、Bの発射行為には死亡との因果関係がないから、既遂責任を認めることはできないが、一部実行したにすぎなくてもBはAと共同正犯関係にあるから、全部の責任(既遂責任)を負うのであり、一種の因果関係の擬制との理解もできる。このような考えからは、共同正犯に処罰根拠論は及ばないということになる。他方、共同正犯の場合、一種の相互教唆、相互幇助ともいうべき状態が生じているのであるから、個別の物理的因果関係がなくても心理的因果関係が認められるのであり、こういった意味での因果関係が及んでいることが全部責任の根拠という考えも可能である(たとえば、平野、内藤など。なお、山口教授は「共同惹起」という表現を用いる。)。先の例では、Bの発射行為はAを勇気づけ心理的因果関係を結果発生に及ぼしたから、Bは殺人既遂の責任を負うことになる。

 思うに離脱論について問題となる領域は共同正犯からの離脱が大半であり、その際の離脱基準として「因果関係の切断」を用いる場合は、その理論的根拠として一部実行の全部責任の法理について共犯の因果関係・処罰根拠論の考えを援用することが筋がとおる。

 ただし、共同正犯の「正犯性」の部分から、修正される可能性はある。たとえば、共同正犯においては、制限従属性説は妥当せず、純粋に因果的共同による連帯性のみ認め、違法性においては正犯者個別に判断し、違法評価の連帯性を認めない。つまり修正惹起説的考えはとらず、共同正犯の正犯性から純粋惹起説に傾斜する考えをとり、最小従属性的思考をとるということである。すなわち、共同正犯は構成要件該当事実を因果的に共同で惹起することを本質として、それゆえ一部実行全部責任の法理が認められるということになろうか。

() 処罰根拠論の射程(限界)



     しかし、すでに見たように共犯の因果関係が問題となる論点では、因果関係の対象、程度・基準について一貫性があるわけではなく、さまざまな意味で修正を図らざるをえないのが現実である。また、結果惹起の直接性・間接性だけで、正犯と共犯の区別をするかのような誤解を与えるおそれもあるし、その理論の一貫性の強調は、かえって共犯の処罰範囲を広げる拡張的共犯論※へと傾斜する傾向もある。また、従属性の程度(要素従属性)の問題が、共犯の因果関係の問題か、それとも共犯処罰の限定性の問題か、あるいは双方にかかわるのか、理論的に不明確な点も残る。

     すなわち、共犯の因果関係・共犯の処罰根拠論は、共犯論解決の万能なツールではない。

     しかしながら、共犯の因果関係という視点が、問題の所在を明らかにし、新たなる基準や理論的根拠を明示(修正も含む)した点は評価されてよい。今後は具体的解決基準としての類型化・明確化、特に幇助・教唆・共同正犯の共謀・因果関係の切断について実務の使用に耐えられる理論の発展が望まれる。




※拡張的共犯論

 制限的正犯概念、つまり正犯性=自己の手による実行という考えを重視し、間接正犯や共謀共同正犯を否定的に考える反面、共犯の従属性を大幅に緩和し(客観的な単純な違法行為あるいは「事実上の正犯」への従属)、共犯の処罰範囲を拡張する見解をいう(佐伯、植田、中、中山、山中など関西系の学説に多い。)。たとえば、看護師は刑法上秘密漏泄罪の主体ではないが(つまり正犯たりえない)、看護師に患者の秘密をもらせと教唆し、秘密を漏洩させても、教唆者には教唆犯が成立する(いわゆる「正犯なき共犯」)。この見解の検討については別の機会に論じたい。