刑法思考実験室「共犯の因果関係・処罰根拠論の射程」(中)
4 承継的共犯と共犯からの離脱
(1)承継的共犯とは、先行者の実行の着手後、犯罪行為に関与した者が先行者の実行の着手までの行為を承継して、共同正犯ないし従犯が成立する場合をいう。たとえば、甲が強盗を企て、被害者に暴行を加えたあと、乙が犯行に関与し、被害者から財物を奪った場合、乙は暴行を加えていなくても、強盗の承継的共同正犯が成立する場合をいう。古い大審院判例は、強盗が被害者を殺害後、財物奪取を助けた者に強盗殺人の承継的幇助犯を認めた事例があり、戦後下級審でも肯定例が目立つ。
ア 学説上は肯定説、否定説、中間説などさまざまな議論がなされているが、本項のテーマである共犯の因果関係・因果的共犯論という視点からは、実行の着手後に関与した者は、関与前の行為に因果関係を遡及的にもつことはありえないのであるから、「承継的」共犯という概念自体、否定的に理解されるのがもっとも素直な理論的帰結である。※
※犯罪共同説・行為共同説との対応関係
かつては、犯罪共同説(罪名従属性説)から、共犯は犯罪の一部を共同すれば足りる(共同正犯における一部実行全部責任の考え)から、承継的共犯肯定説が主張され、行為共同説(罪名独立性説)からは、事実(行為)の遡及的共同はありえないから、承継的共犯否定説が主張された。さらに承継の範囲を限定する中間説(大塚、平野、西田など)もあるが、具体的妥当性はともかく理論的根拠は明瞭でない。詳細は代表的な刑法総論の教科書を参照のこと。
イ しかし、裁判実務が肯定説(一部は中間説)にこだわるには以下の理由が考えられる。
第一に、承継的共犯が成立しないとすれば、関与者の関与行為後について共犯の成否を論じることになるが、個別行為だけでは無罪になる場合、たとえば、詐欺罪の欺罔行為後、財物受領行為のみに関与した者には窃盗の共同正犯は成立しないなど不都合がある。(ただし、行為共同説など罪名従属にこだわらない立場からは、占有離脱物横領の共同正犯の余地はあるが技巧的である。)
第二に、暴行、傷害罪において、先行者の暴行か事後の関与者の暴行から傷害結果が生じた場合、承継的共犯が成立しないと誰も傷害結果を追わないことなり、これは暴行の同時犯でどちらの暴行から傷害結果が生じたか不明の場合に傷害罪の責任を負う刑法207条の適用がある場合と処罰の均衡を欠く。
ウ 上記理由がある程度もっともな点があるとしても、強盗に着手し、殺害後に奪取行為のみ関与した者を強盗殺人の承継的共同正犯として責任を負わすのは酷ではないか(個人責任の原則に反しないか)、207条自体問題のある規定であり、均衡を持ち出すのはおかしいとの反論もある。中間説が考慮されるゆえんである。
しかし、こうも考えられないだろうか。
強盗殺人の例をとると、確かに強盗殺人の承継的「共同正犯」をみとめることは酷であるが、この場合「承継」否定の根拠を明快に説明できるのはやはり「因果関係がない」ということである。しかし、窃盗の共同正犯を問うのもやや技巧的であり、むしろ、強取の結果を促進したものとして強盗殺人の承継的「従犯」を認めるのがその役割に照らし妥当ではないか。これを共犯の因果関係の点から説明すれば、共犯は正犯「結果」を間接的に惹起するのであり、特に従犯の可罰性が正犯に比べて軽いことからすると(刑法63条は正犯の刑を減軽するとある)、その因果関係は正犯の行為・結果のすべてに及ぶ必要はなくその一部、本件では正犯の「強取」という結果発生を促進したのであるから、強盗殺人の承継的従犯を肯定できるといえる。
もっとも、強盗殺人の従犯は罪名従属のいきすぎであり、殺害結果は促進していないとみれば、強盗の承継的従犯にとどまるとの解釈も可能であろう(ここは犯罪共同説を徹底するか、緩和するかの問題。判例通説的な部分的犯罪共同説ならば、罪名従属を厳格にこだわる必要はないし、行為共同説ならば当然罪名独立性となる。)。すなわち、(共同)正犯は因果関係が犯罪実現過程すべてに及ぶ必要があるが、従犯はその加担犯・従属性に照らし、因果関係は一部でよいという修正的理解をとる限り、ぎりぎり因果的共犯論と親和性を保てようか。
なお、機能的行為支配を本質とする共同正犯とそれを本質としない従犯はプリンシプルが異なるので承継的共同正犯は否定されるが、承継的従犯は肯定されるとの見解もある。機能的行為支配を肯定するためには犯罪実現過程すべてに因果関係が及ぶ必要があると理解し、従犯の可罰性を正犯と異なる原理で理解しているのならば、上記見解と実質上同じ意味になる。
傷害の事案については、承継的共同正犯は認められないが、どちらの行為から傷害が発生したのか不明の場合は、207条の拡張的適用を認めて、具体的妥当性を図れば足りよう。こう考えても自己の行為から結果が発生しなかったことの反証は否定されないから被告人に酷というわけではない。
エ 以上の考えに対して、従犯も因果関係が犯罪実現過程すべて及ばなければいけないとし、否定説を堅持する見解もありえよう。正犯と共犯は直接的か間接的かの違いで因果関係上差異はないとの理解である(因果関係は共犯処罰の出発点であり、共同正犯・従犯共通であるとの平野博士の理解の徹底。たとえば、内藤謙など。)。
確かに、反抗抑圧後の関与した奪取行為の際の些細な言動も抑圧状態を利用してなされている限り、それ自体、「暴行または脅迫」と解しうる余地があるから、通常の強盗の共同正犯を認めてうるので(中間説はこの場合を承継的共同正犯の一種とみるが、事後の関与者に新たな実行行為を認めるのであるから、真正な意味での「承継的」共同正犯ではない。)、すべてが無罪となって具体的妥当性がまったくはかれないわけではない。
しかし、因果的共犯論を徹底し、間接的結果惹起を共犯、直接的結果惹起を正犯とすると間接正犯という犯罪類型が否定的になってしまうし、共謀共同正犯も否定にいきつくのが理論的一貫性がある(直接的結果惹起のない共謀者に正犯性はみとめれないからである。純粋惹起説・拡張的共犯論の論者はこの方向である。)。こういったことからも因果的共犯論の徹底することは困難である。
(2)共犯からの離脱(次回に続く)