刑法思考実験室 「被害者の同意と詐欺罪」(中)
4 欺罔の程度は一般人が錯誤に陥る程度でなければならず※、その性質は、交付行為(財産的処分行為)に向けられていなければならない(判例・通説)。すなわち、誰も容易にうそとわかる言動に財物をだまし取られる客観的危険性は認められないし、詐欺における欺罔行為は交付行為と因果関係が必要とされる裏返しとして、交付行為に直接誘導する危険性を要するからである。たとえば、被害者に向こうでAさんが呼んでいると一時的に気をそらし、被害者が財物から目を離したすき盗む行為は、欺罔行為が交付行為に向けられていないので詐欺は成立せず、窃盗が成立する(占有の移転ではなく占有の弛緩のケース)。
※ 欺罔の程度について、社会的相当性の逸脱、信義誠実違反を基準とする見解もあるが、具体的基準は明確ではない。欺罔行為の程度は法益侵害の危険、すなわち、錯誤に陥り、財産を処分する危険の程度で決定されなければならず、取引にあたって被害者が一般人に要求される配慮を尽くしても、なお錯誤に陥るであろうような行為を意味し、被害者が一般人に要求される配慮を尽くせば看破しうるような虚偽表示は欺罔とはならないというべきである(林・各論228頁)。よって、欺罔の程度は、被害者との関係において、限定される。もっともこの一般人を錯誤に陥らせるかどうかは被害者の知識、経験等の諸事情を考慮して、一般的客観的見地からで判断される(通説)。
換言すれば、詐欺罪は取引における「正当な信頼」=財物に関する重要な事実に対する信頼のみを保護するのであり、被害者に重過失があり、同様の状況でも一般人なら錯誤が回避できる場合は、「危険の分配」ないし取引における自己責任の法理により、欺罔行為は否定され、詐欺罪は成立しないと解すべきである(林・各論229頁参照。反対、佐伯など)。すなわち、詐欺罪は、具体的な状況のもと取引において自己責任の法理に委ねることが看過できない悪質な交換価値に関する欺罔を手段とする財産侵害行為を処罰するものと解する(これが詐欺罪固有の不法性である。なお、上記社会的相当性の逸脱、信義誠実違反をある程度具体的に表現すればこのようになろう)
5 欺罔行為、被害者の錯誤、交付行為に因果関係が必要な以上、欺罔の対象と錯誤の対象は同一でなければならないと解すべきである。たとえば、10万円の価値しかない作家Aによる骨董品の壷を100万円の価値があるとうそをつき、サービスで10万円で売却するといったところ、相手は、骨董品としては10万円の価値しかないが、デザインがAではなく著名な作家Bのものと誤信して、将来値上がるだろうと思って10万円で購入した場合、欺罔の対象は、骨董品の価値100万円であるが、錯誤の対象はデザインの価値ないし将来の価値の高騰であって、一致せず、因果関係は認められない。さらにさかのぼっていえば、欺罔と錯誤の対象にずれがあるということは、欺罔ないし錯誤は被害者の交付の動機付けになっておらず、その欺罔行為は被害者の現実の財物交付行為に向けられていない。よって、詐欺未遂の客観的危険性を欠くため、実行行為性は認められず、詐欺未遂も成立しないと解すべきである※。
つまり、形式的には欺罔、錯誤、財物交付があっても詐欺罪が成立しないことがある。これは、欺罔行為に由来しない錯誤(瑕疵)があるとはいえ、被害者に「任意」の財物交付があるためである。還元すれば、欺罔行為とは無関係の錯誤は、財物交付の動機となっていないから、財物交付に関して被害者の同意を無効にするものではなく、有効な被害者の同意を肯定してよいということである。すなわち、かかる被害者の同意が肯定される場合は、詐欺罪の構成要件該当性(実行行為性)は否定される。この意味で後述する詐欺罪の可罰性を基礎づける被害者の錯誤(法益関係的錯誤)は、限定されているといえる。
※具体的危険説(通説)の考えからは未遂を認めるのが素直であるが、有効な被害者の同意という観点からは、未遂の可罰性を肯定すべきではないであろう。ただし、被害者の同意について認識を必要とする立場からは、被害者の錯誤と欺罔の対象のズレを認識していない限り、未遂の可罰性は残るという解釈も不可能ではない。判例・通説が、欺罔行為があったが同情から財物を交付した場合を因果関係がないので既遂ではなく未遂とし無罪としないのは、このような理解が背景にあるのかもしれない。ただし、私見では、本文で述べたとおり、実行行為性の客観的把握及び被害者の同意の効果として未遂不可罰説を支持したい。
そして、欺罔の対象となる事実は①②③の因果関係が肯定できる程度の「重要な事実」であることを要する(山口・各論251頁等参照)。これは錯誤の対象の観点からいうと財物交付を動機づける取引通念上「重要な事実に関する錯誤」が要件とされるといってもよいであろう。
重要な事実に関する欺罔は以下のように分類できる(山中・各論318頁以下参照)
ア 身分ないし欺罔者の属性・能力に関する欺罔※
取引当事者の身分、資格も財産的利益に関係する限り、欺罔(錯誤)の対象となる重要な事実である。たとえば、商品購入について、会員割引がある場合、会員の身分を偽って割引を受けて商品を購入する場合、詐欺になるが、未成年者が年齢を偽って成人向けの雑誌を購入した場合、財産的利益に関係するわけではなく、重要な事実についての欺罔も錯誤もないので詐欺は成立しない。医師免許を持たない者が、患者を診断して客観的に適応する薬を相当の対価で売った場合、同様に詐欺は成立しない(大判昭和3・12・21刑集7・772)。なお、挙動による欺罔行為のケースであるが、暴力団員がその事実を秘して入居申し込みをした点について、挙動による欺罔行為を否定した裁判例がある(札幌地裁平成19年・3・11)。返済能力・意思に関する欺罔も金融機関において貸し付け行為の回収可能性という財産的利益に関係し、重要な事実であり詐欺が成立する。※
※能力および効用に関する欺罔と詐欺の故意
祈祷師が自己の行う祈祷が全然治病の効能がなく、良縁・災難の有無・紛失の行方を知る効もないことを信じているにかかわらず、いかにもその効があるように申し欺いて祈祷の依頼者から祈祷料名目で金員を交付させる行為は詐欺罪となる(最決昭和31・11・20刑集10・11・1542 大コンメンタール刑法第2版第13巻59頁)。祈祷師の治癒能力は被害者の反対給付たる治療効果に関わり、金員交付という財産的利益に関係し、欺罔(錯誤)の対象となる重要な事実となるからである(治療効果の点で目的の欺罔も含んでいる)。
なお、判例の垂水裁判官の補足意見は、
「世の中には、或特定の祈祷、うらないの類、または守札の類を受けると不幸を免かれ若くは普通の方法では判らない人や物の所在、運命等か判り或は幸福に恵まれることがあり得ると考える人々、すなわち、その効能の可能性を多少でも信ずる人々もあり、反対にかような可能性を信じない人もあり得る。そして、人は自からかような可能性を信じないのに、或は可能性の有無を意に介しないで、しかも右祈祷等を請う場合もあり得る(例へば、効能を信じる家人、関係者ないし世人の恐怖をのぞき安心をさせるため安産守札、地鎮祈願を受けるごときである)。かような場合には、その祈祷等は依頼者にそれだけの利益を与えるのであるからそれが達識者から見て意味ないことであつても公序良俗に反しないかぎり祈祷者等が依頼者より謝礼を受けることを約することはもとより自由である。かように依頼者が効能を期待せず且つ祈祷者において依頼者のかような意中を察して有料の祈祷等を約する場合には、たとえ祈祷者が予め依頼者に対しそれが効能あるもののように申し述べても、彼は依頼者が効能がなくても祈祷料をだすことを知つているかぎり、それだけでは彼は依頼者を欺く意思を有するものということはできない。また、祈祷者等が自から効能の可能性が多少でもあることを信ずる場合には依頼者に対し効能があると―余りに誇大でなく―申し述べても彼を欺く意思があるものということはできない(効能を余りに誇大に、しかも相手方を欺くことのできる程度に、吹聴するときはその点で欺く意思があるといえるであろう)。本件は、本文に説示せられたとおりの事実関係であつて、祈祷者自ら効能のないことを信じ且つ依頼者が祈祷者の如何にも効能あるものの如き言辞によつて効能ありと信じその故に有料の祈祷を依頼した場合というであるから、右に述べるような祈祷者が欺く意思を有しない場合、または、依頼者が効能の有無を意に介しない場合には当らず、また信教の自由に関係はない訳である。」とする。能力ないし効用の欺罔の問題をもっぱら故意の問題と把握するが、欺罔ないし錯誤の問題と位置づけることも可能であろう。