刑法思考実験室 制限故意説について | 刑事弁護人の憂鬱

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刑法思考実験室 制限故意説について
 違法性の意識を故意の要件とする厳格故意説は、具体的妥当性を図るためには、違法性の意識の内容を緩和せざるをえず、皮肉なことに「厳格」な故意説を維持出来ない。
 メツガーは、潜在的な違法性の意識で足りるとし、これをドイツでは制限故意説という。日本では、故意説を出発としつつ、違法性の過失を故意に準じて処罰する違法性の過失準故意説(佐伯)、故意責任を直接的反規範的人格態度として、違法性の意識の可能性を故意の要件とする制限故意説(団藤)が主張された。
後者は実質的に責任説との評価もある(平野)。
 さて、故意と違法性の意識の可能性は、責任説の考えが、理論的に明確であり、立法論として支持されるべきものである。(改正刑法草案やドイツ刑法参照)
 しかし、責任説によれば、現行法の解釈としては、違法性の意識の可能性がない場合を超法規的責任阻却事由として構成せざるを得ない(平野)。団藤説としての制限故意説は端的に刑法38条1項により故意阻却と構成でき、解釈としては手堅い。下級審に制限故意説をとるものがあるのも理由がある。
 そこで、制限故意説を再評価すべきではないかと思う。
 しかし、だからといって団藤説である人格責任説に立つ必要もない。
 思うに犯罪事実の認識認容により違法性の意識が喚起可能な心理状態での犯罪の実行は、違法行為に出ない反対動機形成が直接可能であり、直接的反規範的意志活動として法的な非難、故意責任を問える(規範的責任論)。
 このように違法性の意識の可能性は故意の要件であると解される。ただし、犯罪事実の認識認容により、原則として違法性の意識は喚起可能であり、違法性の意識の可能性は推定される(故意の提訴機能)。 
 よって、違法性の意識の不可能性、違法性の錯誤について相当の理由がある場合が例外的な故意阻却事由となると解すべきである。
 刑法38条1項の「罪を犯す意思」は、犯罪事実の認識認容により違法性の意識が喚起可能な心理状態と解し、3項は、違法性の錯誤は原則として故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性があっても、非難が減少し刑の減軽ができることを定め、違法性の意識の可能性がない場合は、1項により故意が阻却されると解することになる。※

※団藤説は、38条3項本文を法律の不知、あてはめの錯誤について故意を阻却しない規定、ただし書きを違法性の錯誤について違法性の意識の可能性がある場合責任が減少し、減軽できるものと読むが、違法性の意識の可能性を38条1項に読みこめば、違法性の錯誤について故意を原則阻却しない規定と読むことは可能であるし、本文ただし書きをともに違法性の錯誤についての規定とみるのが整合的である。


 このような意味で、故意の犯罪要素としての意義、本質は、責任にある。つまり、団藤説のいうとおり、「故意の本籍は責任にある」。
  しかし、故意の犯罪事実の認識認容の側面は、犯罪実現意思として法益侵害の危険を高め、主観的な因果性の起点であり、社会に対する脅威となる意味で、主観的違法要素である。かかる意味で故意は違法と責任の二重の地位を有する。(団藤説や藤木説の理解を咀嚼すると、こういう説明が可能であろう。)
なお、制限故意説と似て非なる実質的故意論(前田説)についての検討は次回に。移動の電車の中での執筆なので、事後修正改訂予定。





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