刑法思考実験室その4 「実行行為・結果の帰属と因果関係の錯誤」
1 因果関係の錯誤について、従来の錯誤論(故意論)の視点に加え、実行行為の特定(個数)、因果関係ないし結果の帰属論の点から若干の検討を試みる。
2 因果関係の錯誤が問題となるケース
事例1 橋桁事例(狭義の因果関係の錯誤)
AがBを橋の上から突き落とし溺死させようと企て、①Bを突き落としたところ、②Bが橋桁に頭をぶつけ死亡した。
事例2 いわゆるヴェーバーの概括的故意(遅すぎた構成要件実現)の事例
AがBを絞首して殺し、死体を海岸に遺棄しようと企て、①Bの首をしめ、②Bを海岸に遺棄した。ところが、①の段階でBは気絶しただけで生きており、②の段階で砂を吸い込んで窒息死した(大判大正12年4月30日)。
事例3 早すぎた構成要件実現の事例
AがBを毒入りの菓子を食べさせ殺そうと企て、①Aは毒入り菓子を戸棚にいれておいたところ、②Bが勝手に戸棚にあった菓子を食べ、結果として死亡した。
事例4 実行行為の連続性・1個性(ただし個別行為の因果関係不明)の事例
AはBを①クロロフォルムを吸引させて気絶させ、②車に乗せて、車ごと海に落とし、溺死させることを企て、①②の行為を行い結果としてBは死亡したが、死因は①の時点での呼吸停止によるものか、②の時点での呼吸停止によるものか不明であった(最高裁平成16年3月22日決定)。
3 狭義の因果関係の錯誤の処理 事例1の検討
事例1についてみると、①の行為に殺人の実行行為が認められるのは明白である。客観的な因果関係も相当因果関係説の立場から肯定できる。しかし、主観的には溺死させようと思ったが、客観的には橋桁の衝突死であり、死亡経過に至る因果関係に主観と客観の齟齬がある。典型的な因果関係の錯誤が問題となる事例である。
通説は、客観的な因果関係と主観的な因果関係にづれがあっても、ともに相当因果関係がある、つまり因果経過が相当であると評価できる場合は(法定的に符合=相当性の範囲内なので)、故意は阻却されないという(大塚など)。しかし、この通説では、客観的因果関係の相当性がない場合は、未遂となり、錯誤を論じる必要性がなくなるし、主観的な相当性がない場合、故意が阻却され未遂となると(内藤など)と、既遂犯の故意と未遂犯の故意が異なるという奇妙なことになる(なお、大塚説は、通常の事実の錯誤と同様に故意阻却を認め、過失犯が成立するという。通常の錯誤論との理論は一貫するが、妥当性の観点からは疑問があろう。)。
そこで、、最近の有力説は、そもそも因果関係は故意の認識対象ではなく、因果関係の錯誤は当然故意を阻却しない、端的に客観的な因果関係があるかないかが問題となるにすぎないという(因果関係の認識不要論・因果関係の錯誤無用論。前田など。前田教授は、一般人ならば違法性を意識しうる事実認識を故意とする実質的故意論の観点から、実行行為と結果の認識があれば、一般人なら違法性を意識しうるので、因果関係の認識は不要とする。)。しかし、他方で、論者は「実行行為の認識」を故意の内容とし(前田)、溺死の危険を有する実行行為と橋桁に衝突死する危険を有する実行行為という具合に実質的に通説と同様に「因果関係の錯誤」が問題となり得るのである。ただし、そうなると、実行行為の故意が阻却されると未遂すら成立しなくなるという帰結になるが、それが妥当とは思えない。もっとも、法定的符合説を前提とするかぎり、故意が阻却されることはないので、理論的不都合が現実化する余地はないのかもしれない。そうすると、結局、実行行為の認識を独立に論じる意味はやはり乏しいことになる。
ただし、次の事例の場合どうか?
事例1-b Aが警察官から奪ったピストルでBを殺そうと企て(ただし、心臓麻痺をおこすおそれは認識していない)、①心臓病を抱え、心臓外科の病院からちょうど出てきたBに向け引き金をひいたところ、②ピストルには弾は入っていなかったが、ピストルを向けられたショックでBは心臓麻痺を起こし死亡した。※
※ ①の行為について、ピストルを発射し、弾が射出されたが、Bに当たらず、②その発射音に驚愕して、ショックでBは心臓麻痺を起こし死亡した場合でも(中山ほかレヴィジオン刑法3の事例)論点は同じである。
まず、①につき実行行為性が認められるかどうかだが、通説である具体的危険説であれば死の危険があり殺人の実行行為は認められる(修正客観的危険説でも方法の不能であり、同様の帰結になるであろう)。②につき客観的な因果関係は、相当因果関係説の折衷説(一般人の予見可能性)、客観説(客観的全事情からの事後予測)では肯定されよう。
しかし、Aとしては射殺する意思であったのにBは心臓麻痺死である。この場合も事例1と同様に故意は阻却されないと解すべきであろうか。
法定的符合説の立場からはこの場合も故意を認めうるであろうが、この場合に殺人既遂を認めるのは若干の違和感がある(客観的な因果関係は否定できないにしても、日常感覚的に死亡結果が偶然的印象をぬぐい切れないからである。)。
他方、ピストルを向けられて心臓麻痺死すること自体、異常とまではいえないが、日常よくおきるとはいえず、Aが認識した射殺の危険がBの結果つまり心臓麻痺死として実現したとはいえない(主観的な相当性の欠如)、つまり、この場合、Bの死の結果はAの故意に帰責されないという解釈も可能であろう。すなわち、因果関係の錯誤は広い意味での客観的帰属(正確には「故意への結果の帰属」)の問題であり(ロクシンなど)、結果が故意の実行行為に帰責されない場合は、未遂にとどまるという解釈は可能である。
つまり、「故意阻却」という理解ではなく、「結果の不帰属」という理解により、通常の錯誤論とは別に未遂を論じることは理論的に可能である。方法の錯誤における併発事実・故意の個数論も、従来の故意論(錯誤論)の観点からではなく結果の帰属の観点からの再検討があってよいのかもしれない(なお、前田教授は、これを狭義の錯誤論(故意論の裏返し)と区別して「主観的帰責」とよぶが、独自に論じる実益は少ないともいう。)※。
※事例1-bにしても、結果が帰属すべき故意の実行行為性を肯定しないが(そもそも広義の相当性がない)、未遂を基礎づける実行行為性を肯定し(あるいは未遂結果としての具体的危険と相当因果関係のある実行行為の肯定)、未遂を認めるという理解もありうるかもしれない(実行行為概念の相対性※※)。このように因果関係の錯誤は、無用論とわりきるべきではなく、実行行為論、因果関係ないし客観的帰属論の観点から
具体的妥当性と理論的可能性を吟味すべ きであろう。因果関係の錯誤に固有の意義を認める見解(内藤、井田など)がもっと理論的に評価されて良いと思われるし、今後の学説の発展が望まれる。
※※実行行為概念の相対性
実行行為概念は、正犯性、未遂犯、因果関係の帰属点、責任能力の同時存在の対象などの基準となる重要な概念であるが、すべての場面で同一内容を有するわけではない。たとえば、予備の共同正犯を認める場合、予備行為は未遂行為としての実行行為ではないが、正犯行為としての実行行為である。同時存在が要求される実行行為(正犯行為)は、未遂犯としての実行行為(実行の着手)でなくてもよい(例外説ないし修正説)。このような考え(先駆的には平野龍一博士の「正犯と実行」犯罪論の諸問題(上)所収)の延長として、未遂犯の実行行為と既遂犯(因果関係の起点)の実行行為は異なるとの理解が可能となろう。しかし、ここまで実行行為概念の相対化を許容することは、実行行為概念不要論となる危険性、すなわち、実行行為概念の体系的思考上の統一的基準としての明確性を損なうのであり、理論的問題をはらむ。団藤博士の定型説まで、実行行為を形式的に限定すべきかは一つの問題ではあるにしても(もっとも、団藤説すら実行行為の拡張的解釈は行うし、定型性の多義性による一見明確でありながら、不明確性という相反する性質を有するのであるが…)、実行行為概念不要論は、現行刑法の実定法概念である実行行為概念に実質をもりこむことを超えて、その形式的基盤を、破壊し、罪刑法定主義の趣旨にもとることになるのではないか。