刑法思考実験室その2 未遂犯における危険概念(実行の着手と不能未遂) | 刑事弁護人の憂鬱

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刑法思考実験室その2 未遂犯における危険概念(実行の着手と不能未遂)


1 日本の刑法の未遂犯の規定は、総則に二つの規定が定められている。
 まず、刑法43条本文は、犯罪の実行に着手し、これを遂げない者は、その刑を減軽することができる、と規定する。つまり、未遂犯とは、「犯罪の実行に着手」して「遂げない」=既遂結果の不発生の場合をいい、既遂犯の法定刑に照らして「刑を減軽することができる」=任意的減軽。任意的とあるが、実務的には原則、減軽する運用である。ちなみに同条但し書きは、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する、と規定する。これを中止未遂というが、今回は考察の対象外とする。
次に、刑法44条は、未遂を罰する場合は、各本条で定める、と規定する。つまり、未遂犯の処罰は、刑法第2編「罪」の刑法各則規定に個別に定めた場合しか認められないと言うことであり、建前上、例外的処罰となっている。もっとも、殺人に代表される故意の結果犯は、原則として未遂犯処罰規定がある。


2 未遂犯の処罰根拠については、大きく分けて主観説と客観説がある。主観説は、客観的な結果が発生していないのに未遂犯が処罰される根拠は、行為者の反社会的性格が徴表されたことにあるとする。主観主義・新派近代学派からの主張である。これに対し、客観説は、未遂犯の処罰根拠を客観的結果発生の危険に求める。客観主義・旧派古典学派からの主張である。主観説の考えを徹底すれば、未遂も既遂も反社会的性格の徴表である点にかわりはないので、同じように処罰するようになる。客観説の考えでは、未遂は既遂より違法性が低く、軽く処罰すべきであり、客観主義の見地からは例外的処罰となる。前述した現行法は、任意的減軽主義をとり、理論上は、未遂も既遂と同じ刑で処罰することができるし、未遂犯処罰規定も決して少なくない。この点をみれば、主観説的傾向をもっている。他方、現実運用は、必要的減軽主義的になされ、44条は、建前上未遂犯処罰の例外性を規定している。この点を見れば、客観説的な傾向での運用ないし規定といえる。
このような折衷的な規定となっているのは、現行刑法が制定された当時、新派の考え方も有力であったことや未遂犯における主観説的理解が比較法的にもめずらしくなかったことによる。

3 上記処罰根拠論は、まず未遂犯の積極的要件である「実行の着手」の判断基準の見解と結びつく。主観説・徴表主義の立場から、「犯意の遂行が確定的に認められる場合」「犯意の飛躍的表動」など犯意つまり「故意」があると客観的に認められる挙動があったかどうかが基準とされる。つまり、実体的には「故意」の有無が、認定ないし基準としては、故意を徴表する(推認させる)客観的事実の有無が問題となる。窃盗の実行の着手からすれば、財物に接触しなくても、物色行為や、居宅への侵入行為などにも実行の着手を認めうることになる。他方、客観説からは、客観的基準がとられることになるが、これは形式的客観説と実質的客観説がある。前者は、形式的に実行行為の開始を基準とする。たとえば、窃盗の実行の着手は、窃取行為(実行行為)の開始、つまり、財物をとろうとする挙動を開始したときに実行の着手を認めることにある。後者は、客観的な結果発生の危険の有無を基準とする。たとえば、窃盗の実行の着手は、財物の物色行為があれば、窃取される現実の危険があるので実行の着手を認めうる。前者の方は、形式的基準としては明確であるが、実行の着手の成立時期を遅らせる嫌いがあるので、後者が通説となっている。しかし、客観的危険の判断も決して明瞭なものではない。判断資料として故意など主観面を考慮すると、主観説との違いは曖昧である※。そこで、形式的基準の修正として実質的危険性判断を考慮する折衷的な見解もある。※※ ※※※
 判例は、窃盗における物色行為、放火における点火行為以前のガソリンまく行為、強姦における自動車に引っ張り込む行為等に実行の着手を認めており、実質的客観説と親和的である。ただし、学説と異なり、判断資料については、特に限定はしていないようである。


※実質的客観説の判断資料をめぐる見解
 主観面を全く考慮しないとする見解、未遂犯において故意は超過的主観的違法要素であるとして故意を考慮する見解、故意のほか犯罪計画も考慮する見解がある。ただし、後述する不能犯における具体的危険説の基準を用いれば、故意はもちろん行為者が認識した事実は考慮事情になろう。このように実質的客観説の「実質的」の意味は、危険概念の規範化・主観化傾向を意味することになる。


※※行為の危険か結果としての危険か?、潜在的実行行為と遡及的実行の着手論
 未遂犯における危険概念において、近時は、間接正犯・離隔犯・原因において自由な行為における実行の着手基準をめぐり、事前判断的な行為の危険、事後判断的な結果としての危険の二つの危険概念を用いて、結果無価値論の立場から、結果としての危険を未遂犯の危険と把握し、未遂犯の成立時期を被利用者基準説、到達時説、結果行為説に求める見解もある。ただし、この見解の難点としては、行為者の現実の手を離れたところに「実行の着手」=実行行為の開始を認めるのであり、文理解釈上の整合性が問題となる。そこで、①実行の着手=行為の危険、未遂犯における可罰的危険=結果としての危険と開始、実行の着手があっても未遂犯はそれだけで成立せず、別途、結果としての危険(具体的危険)が必要とする見解がある(曽根。類似の説明として高橋則夫)。しかし、この見解では、実行行為が終了する実行未遂のみ未遂犯として処罰するに等しく、実行行為の開始、つまり着手未遂だけで可罰的とする文理との整合性がない。論者は「これを遂げなかった」という結果不発生の消極的要件の中に結果としての危険を読み込もうとするが、文理解釈としては無理がある。他方、②間接正犯、離隔犯、原因において自由な行為において、利用者の行為、発送時、原因行為時点では、結果としての危険はないので、その時点で実行の着手は認めがたいが(潜在的実行行為)、被利用者の行為、到達時、結果行為時において、危険の現実化が生じ、結果としての危険が認められ、さかのぼって、利用者の行為、発送時、原因行為時に実行の着手(現実的実行行為)を認める見解もある(潜在的実行行為・遡及的実行の着手論 山中、西田など。この見解はおそらく平野博士の正犯行為と実行の着手の分離の考えに影響を受けている。)。技巧的な解釈である点は除いても、事前の行為が事後実行行為に転化するのは、結局、結果の危険という意味での結果無価値が発生すれば、起点となった行為はすべて実行行為といっているに等しいのであり、たとえば、死という結果が発生すれば、起点となった行為(たとえば、交通事故が起こることを予想して列車に乗るよう勧める行為など)はすべて殺人の実行行為になることになるが、これは、実行行為という概念に限定機能をもたせないことになる。一応潜在的実行行為という意味で何らかの危険行為を予定しても、予備行為との区別は曖昧である。よって、潜在的実行行為・遡及的実行の着手論は、間接正犯、離隔犯、原因において自由な行為においての危険発生との実行の着手概念の整合性について一応の説明ができても、かえって実行行為概念の空洞化をもたらすという理論的な問題を抱えることになり、全面的に支持はできない。なお、結果無価値論からは結果としての危険を重視するが、これは結果発生の一歩手前の危険ということであろう。しかし、結果は実行行為により、惹起されるものであるから、実行の着手における危険は、実行行為の開始か、実行行為の一歩手前の危険であって、実行の着手だけで可罰的とする、つまり着手未遂で可罰的とする現行法の体系からすると、結果としての危険は実行行為終了時にまでまって可罰的とする、つまり実行未遂のみを可罰的とすることとなり、現行法の体系と整合性がとれなくなるように思われる。
 
※※※ 手放し(自動性)基準か段階的切迫性基準か?
 間接正犯、離隔犯において、実行の着手基準、つまり未遂犯における危険の判断基準について、①その行為により、因果経過は自動的に進行し結果発生は確実と認められる、つまり結果発生の自動性が認められる場合、利用行為ないし発送時点の行為者の手を離れた時点で未遂犯における危険を認める見解、②被害者(法益)に対する危険が時間的に切迫した時点で未遂犯における危険を認める見解がある。間接正犯については、狭義の共犯の未遂の成立時期との均衡、離隔犯においては、危険の現実性という観点から、②が常識的な結論を維持できる。判例も離隔犯においては到達主義をとっており、②と整合的である。この②に対しては、時限爆弾を設置する場合、爆発する直前ではなく、設置段階で未遂を認めるのが妥当であることからすると①の基準が妥当という見解もある。なるほど、この批判は鋭く、①基準の優位性を物語るようにみえる。しかし、他方で、②基準の結論が常識的にみて、それほど不当とも思えない(未遂犯の処罰時期が遅すぎる印象は受けない。)。これらの相違は、人間の行為が介在するかどうかの差である。機械的正確性にくらべ、人間の行為は不確実性をはらむという認識ないし常識の差である。つまり、機械的正確性から結果発生が確実といえる場合には①の基準、人間の行為が介在する場合は、狭義の共犯における実行従属性の原理との均衡ないしその法理の援用により②が基準となるという理解で必要にして十分ではないだろうか(一種の個別化説。)。この意味で未遂犯の危険概念は規範的ないし相対的概念と理解される。実行行為の開始(実行の着手)の文理との整合性については以下のように解釈できる。すなわち、正犯の実行の着手、すなわち刑法43条の「犯罪の実行に着手」する場合とは「自ら直接的に犯罪の実行に着手」する場合と故意の正犯以外(刑法61条の反対解釈)の他人の行為を支配したといえる犯罪実現行為=正犯者の行為支配を通じて「他人の行為による間接的に犯罪の実行に着手」する場合を含むと拡張解釈することは可能であろう。なお、原因において自由な行為については、同時存在の原則の修正で理解すればたりる。


4 実行の着手とは別に不能未遂の判断基準論が議論されている。ここで不能未遂ないし不能犯とは、行為者としては結果を発生させようと行為したが、客観的には結果の発生がおよそ不能であった場合をいう。たとえば、財物が入っていないポケットへのスリ行為(客体の不能)、銃弾の入っていないピストルの引き金を引く行為(方法の不能)などの場合をいう。ドイツ刑法では、主観説の立場にたって、不能未遂を処罰する(可罰的不能犯)。不能未遂に反社会的性格の徴表に変わりはないとみるか(新派的理解)、社会に不安、危険を感じさせる「印象」を与える反規範性ないし規範=法秩序に対する侵害とみる(規範主義的・行為無価値的理解)。
  他方、日本の刑法には、不能未遂の処罰規定がないので、不能未遂論は、実行の着手ないし未遂の危険性の裏面の問題として議論される(不可罰的不能犯)※。主観説からは、純粋主観説も主張されるが、主観的な危険、つまり行為者の認識した事情を基礎として、一般人が危険を感じる場合を未遂、そうでない場合を不能未遂とする見解が主張された(抽象的危険説)。たとえば、行為者は毒だと思っていたが、客観的には砂糖であっても未遂となる。この立場からは、不能未遂として不可罰の範囲は非常に狭い。他方、客観説からは「絶対的不能・相対的不能」説、客観的危険説、主観説的な部分を考慮した具体的危険説が主張され、具体的危険説が通説とされる。すなわち、行為当時において一般人が認識しうる事情及び行為者が特に認識していた事情を基礎に一般人が危険を感じる場合を未遂、そうでない場合を不能未遂とする。たとえば、砂糖が毒とラベルした瓶に入っており、一般人も毒が入っていると思う瓶の中身を飲ませてようとする行為は、一般人が危険を感じるので未遂となる。逆に砂糖の瓶に毒が入っていて一般人が毒と思わなくても、行為者が特に毒と認識していた場合は、一般人は危険を感じるので未遂となる。また、財布が入っていないポケットへのスリ行為、銃弾が入っていないピストルの引き金を引く行為も一般人が財物が入っている、銃弾が入っていると認識可能な事情があれば、未遂となる。ここでは、事前判断、一般人の認識可能性プラス客観的事情の行為者の認識を考慮する客観説と主観説の折衷説的な基準がとられている。


※ただし、実行の着手論と不能犯論の守備範囲は微妙にずれがある。前者は、結果発生に向けて因果の過程・進行の中、どの時点、段階で未遂を認めうるかという時間的段階的危険概念である。他方、後者は、事後的にみて、およそ結果が発生しないことが明白な場合に、行為者が結果を目指した挙動が危険を有していたと認める得るか、事後的客観的には不能であるが事前的主観的には可能であった場合である。これは、時間が進行しても結果発生はおよそありえない場合でも、法的評価として未遂を認めうるか、結果が不発生でも故意によって現実化した事実について未遂としての危険を認めうるかの問題である。つまり、未遂としての危険の有無ないし評価の問題である(この意味で予備の不能犯も論理的にはありうる。)。
 前者を行為の危険(行為無価値)、後者を結果としての危険(結果無価値)と区別する見解もある(曽根)。しかし、通説はともに実行行為性の問題(構成要件該当性)と理解し理論的かつ性質的な違いとして区別していないようである。また、より明確に、実行の着手があることは、不能犯ではないことであり、危険判断としては同じであるとの理解もある(野村)。通説も理論的に徹底すればこのような理解になろう。ただし、(不可罰的)不能犯が問題視されるのが例外的な場面だとすると、同一次元で考えてよいかはなお検討を要する。


5 未遂犯における危険概念の主観化
  以上概観したように今日の通説的見解では、実行の着手論においても不能犯においても行為者の主観を考慮して未遂犯における「危険」判断を行っている。すなわち、客観説の徹底、客観的外部的事情だけで危険を判断することはできないという認識にたっている。これは、不能犯における客観的危険説に向けられた批判、つまり結果が発生しなかったことは客観的には何らかの理由があることであり、事後的観察からすれば、その結果不発生は必然的である。よって、すべての未遂は、事後的に観察するかぎり、すべて不能犯となってしまうことになる※という批判が正鵠を射ているからである。
 では、具体的危険説での一般人と行為者の認識ないし認識可能性というダブルスタンダードがとられる理由はなぜか。一般人基準は、一般人を名宛人にする行為規範違反性(規範論的一般予防)に求めることができる(ただし、行為規範論は、一種のフィクションであるから、一般人基準という実体は行為時に一般的客観的に認識可能な事実に判断基礎事実を限定することにより、判断される外形的危険、社会心理的危険感を可罰的危険とする基準といってよい。)。行為者基準は、客観的な事実を行為者が認識して結果を実現しようとする場合は、故意による危険実現過程が確実であり、社会に対して脅威あるいはその印象を与えることに求めることができる(主観主義的社会防衛論、印象説)。このように規範違反性、行為者の危険な性格といった規範主義。主観主義的な処罰根拠が、未遂犯の可罰性(処罰根拠)を基礎付けとして考慮せざるを得ないであり、未遂犯における危険概念が主観化する傾向は避けられない。もちろん、一般人基準は外部的観察という客観性を担保しようとするし、行為者基準にしても行為者が客観的事実を踏まえて結果実現をしようとしていたかという点で客観説的要素がある。また、形式的客観的な構成要件該当行為の開始(密接行為を含む)という枠組を前提で考えるのならば、なお、純粋な主観説、徴表主義とは一線を画しているといえよう。


※修正客観的危険説
 そこで、結果不発生になった原因について抽象化し、ピストルに銃弾が入っていた可能性、ポケットに財布が入っていた可能性を問い、この結果発生を可能とする仮定的事実が十分あり得た場合に未遂犯の危険を認める見解がある(修正客観的危険説 仮定的事実説 山口、西田など)。しかし、このような結果不発生になった事実の抽象化を図る理論的根拠は明確ではなく、仮定的事実の存在可能性は、いかなる事実を仮定するのかの選択の基準も明瞭でない。一般人が認識可能な外形的事実を基礎に仮定するならば、警官がピストルを所持している(一般人が認識可能な外形的事実)→一般的に警官は実弾入りのピストルを所持している(経験則・社会通念・一般人の観念)→そのピストルには銃弾が入っていることが十分あり得た(仮定的事実の存在可能性)となり、空のピストルの引き金を引く行為も結果発生の危険が認められることになる。しかし、これは、具体的危険説の判断過程の一コマでしかない。すなわち、本件見解は、客観的危険説の修正ではなく具体的危険説の修正ないしバリエーションの一種と見ることができる。


 参考文献


 未遂犯論については、各種刑法総論教科書のほか、中山研一ほか「レヴィジオン刑法2 未遂犯論・罪数論」(2001年成文堂)、 現代刑事法2000年9月号(17号)を参照した。