「未必の故意(下)」実務からみた刑法総論その3
第1 未必の故意の概念
未必の故意の概念は、認識ある過失と境を接すると同時に確定的故意とも区別される。認容説を前提に殺意を例にとると以下のような整理ができる。
1 確定的殺意 死の危険の認識+死という結果発生への意欲
2 未必の殺意 死の危険の認識+死という結果発生の認容
3 認識ある過失 死の危険の認識+死という結果発生の認容なし
4 認識なき過失 死の危険の認識なし+死という結果発生の認容なし
なお、正確には、3、4の過失は、積極的要件としての注意義務違反が要求される。
4は特に問題はないが、3につき、死の危険の認識がありながら、認容しないことは、結局結果発生はありえないと判断して行為に及んだ場合であり、死の危険の認識が動機となっていないのであり(後記の動機説的理解)、結果回避行動への動機付けが働いていないという意味で、結果発生の予見義務履行が十分つくされていないのであり、過失を構成する予見義務違反を認めることができるので、「認識ある過失」も過失として把握することができよう。
第2 未必の故意と動機
状況証拠による事実認定の場合、動機が弱いないし薄弱の場合は、確定的殺意ではなく「少なくとも未必の殺意は認められる」という形で、認定される傾向があるという。動機がない場合に(他の状況証拠と総合して)未必の殺意すら認められないとする裁判例もある。
第3 未必の故意の要証事実
状況証拠で立証すべき対象は、最終的には、殺意なのだが、直接には、殺意の評価の対象となる心理的事実である。抽象的には、「死の危険の認識、死の結果発生の認容」、
具体的には、「ナイフで胸をさせばしぬかもしれない、死んでもかまわないと思った」という心理的事実である。
なお、故意を過失のように法的評価概念、規範的要素と解し、上記心理的事実を評価根拠事実と解することも可能かもしれない。
第4 未必の故意と量刑
1 確定的殺意と未必の殺意で、量刑上の差があるかについて、差はないとの見解もあるが、他の事実とあいまって、偶発的な要素の一種として、確定的殺意の場合より、軽くなる場合もありえよう。
2 被告人による暴行により、死亡結果発生がある事件は、未必の殺意の有無が、殺人罪と傷害致死罪の成否を分けることがある。しかし、傷害致死罪の法定刑の上限は、懲役20年であり、殺人罪で有期懲役が選択された場合、下限では殺人罪の方が、重いが、上限では、差異はない。
したがって、未必の殺意の有無が、微妙な事案は、傷害致死罪と認定し(疑わしきは被告人の利益に)、量刑で刑のバランスをはかるということも考えられる。
3 ただし、認容説の立場からは、認容がないのに主観的事情を考慮して殺人と同じような量刑をするのは、責任主義に反するのであり、他の行為態様、結果の重大性といった要素が悪質な場合等の総合判断の結果として、量刑が殺人の場合と接近することはあっても超えることは妥当ではない。
第5 未必の故意の学説と判例
1 未必の故意についての学説は、百家争鳴で統一的見解はない。かつては、上記故意の本質論から認容説が通説といわれていたが、蓋然性説、動機説などが有力となってきている。
2 蓋然性説は、認識の程度を結果発生の可能性、蓋然性、確実性の認識にわけ、蓋然性の認識があれば、未必の故意を認めてもよいとする見解である。
3 動機説は、結果発生の可能性の認識が、打ち消されず、行為に及ぶ動機となっていた場合に未必の故意を認め、認識が、打ち消され、行為に及ぶ動機となっていない場合は、認識ある過失とする見解である。
4 最高裁判例は、はっきりしない。著名な贓物罪の認識についての判例は、「故意が成立するためには必ずしも買受くべきものが贓物であることを確定的に知ってることを要しない。或は贓物であるかもしれないと思いながらしかも敢えてこれを買い受ける意思(いわゆる未必の故意)があれば足りる」という。
認容説からは、認容説を採用したものとするが、蓋然性説、動機説からは、各自の説と矛盾しないという。
下級審裁判例では、明示的に認容説を採用するもの、逆に蓋然性説的表現をとるものもある。
5 このことは、認容説であれ、蓋然性説であれ、状況証拠による認定の結論においては、差が大きくないことを意味しているのではないだろうか。
また、動機説は、故意における認識と意思的要素を動機を媒介として結合し、かつ過失との境界と非難可能性の評価の統合的な説明としては理論的にすぐれている。そして、認容という心理的事実があった場合、その認識・認容は、行為の動機となっていると説明も可能である。
そうだとすれば、故意の本質論、理論的枠組みとしては、動機説をとり、未必の故意の対象となる心理的事実は「認容」として、判断基準ないし重要な状況証拠の一つとして「蓋然性の認識」を考慮するといった総合的な理解をとるべきではないだろうか。つまり、動機説と認容説を結合し、蓋然性説を状況証拠、間接事実論に組み込むのである。
もちろん、蓋然性の認識がなくても他の状況証拠から、「認容」が推認されることもあり、逆に「蓋然性の認識」があっても他の消極的状況証拠から「認容」が否定される場合もある。この意味で蓋然性の認識=未必の故意を定式化するものではない。
だが、「蓋然性の認識」があって、行為に及んでいる場合は、特段の事情がない限り、「認容」が推認されると評価するという準則を認めるというところに私見の実践的な意味がある。
第6 積極的認容と消極的認容
1 たとえば、死んでもかまわないという場合を積極的認容という。
他方、例えば、死ぬかもしれないが、どうでもよいという無関心の場合を消極的認容という。
2 積極的認容や消極的認容を状況証拠で認定することは困難であるのと指摘がある。
確かに積極的認容は、状況証拠から認定することは、難しい面もあるが、激情的な心理的状態や行為態様から認定することは、必ずしも不可能ではない。
3 問題は消極的認容である。状況証拠から無関心を認定することは、積極的認容以上に難しい。死の危険を認識しても、意に介さず、あえて行為にでることは、抽象的言葉の上ではいえても、具体的な心理的事実として状況証拠により認定できるであろうか。
この点、悪しき「人格態度」を根拠に消極的認容を認めることになり問題だと学説の指摘もあるが、結果発生の確実性に近い認識(蓋然性の認識という言葉をつかってもよい)があって、何ら行動を躊躇せず実行している場合、「意に介さない、無関心」という心理的事実が推認されると考えても不合理なものとまではいえない。
また、共犯における幇助犯や共犯正犯における従犯的役割の場合は、状況証拠により消極的認容の認定も比較的可能かもしれない。例えば、夫が、子どもを虐待していても、あえて助けたり止めたりせず、介抱もしない妻の不作為による幇助は、消極的認容が状況証拠により認定しやすいかもしれない。
4 いずれにせよ、「認容」つまり未必の故意の認定にあたっては、状況証拠による認定の際の考慮要素ないし準則の類型化、定式化と認定にあたっての分析的考察と総合的視点の慎重さが要求されよう。若干古い論文であるが、大野市太郎「殺意」(後記「刑事事実認定(上)所収)での状況証拠の判例の整理は有用である。
参考文献
・小林充・香城敏麿編「刑事事実認定(上)」(1992年 判例タイムズ社)1頁以下
・木谷明編著「刑事事実認定の基本問題」(2008年 成文堂)25頁以下
・平野龍一著「刑法総論Ⅰ」(1972年 有斐閣)181頁以下
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