「主観の客観化」 実務からみた刑法総論その1  | 刑事弁護人の憂鬱

刑事弁護人の憂鬱

日々負われる弁護士業務の備忘録、独自の見解、裁判外の弁護活動の実情、つぶやきエトセトラ


「主観の客観化」 実務からみた刑法総論その1 


1 刑法解釈上、犯罪とは、構成要件に該当する違法で有責な行為と定義される。この三分体系は、ドイツ刑法学から継受されたものである。実定法の概念(実定法で定義されるという意味)ではないが、日本の刑事裁判実務でも援用されている。
 日本の現行刑法は明治40年に制定されたものであるが、当時のドイツ刑法の影響を受けており、その解釈に当たってもドイツ刑法の解釈学が輸入された(学説継受)。したがって、日本の刑法解釈学は、ドイツ刑法学の影響力に形成されてきたものであり、上記犯罪三分体系もその産物である。この概念の意義、思考パターンの限界等考察すべきことは多いが、別の機会にゆずる。


2 構成要件・違法・責任の体系の概念法学的な議論はさておき、その共通する概念として犯罪の客観的要件と主観的要件というものがある(客観的要素、主観的要素といってもよい。これらを構成要件・違法・責任概念とどう位置づけ把握するのか百家争鳴的な論争が学説上行われ、現在のドイツ、日本の学説の多数的な理解としては、三分体系のいずれの要件でも客観的要素、主観的要素があるという理解をしている。)。
 たとえば、窃盗罪は刑法235条によれば、「他人の財物を窃取」することであり、客観的要件として、他人の財物、その窃取行為、主観的要件として、窃盗の「罪を犯す意思」(故意 刑法38条1項)、さらに解釈論上「不法領得の意思」(判例・通説)が必要とされる。殺人罪(刑法199条)においても、客観的要件として、人を殺すこと、主観的要件として、殺人罪の故意(殺意) が要件となる。 過失犯における「過失」も主観的要件と解されている(後述するように実務や学説が、これを純粋な主観の問題と理解しているのか疑問もあるが。) 。
 なお、実務上、客観的要件を「罪体」とよび、主観的要件その他の要件と区別している。たとえば、起訴状記載の公訴事実のうち、罪体は認めるが、主観的要件、故意の存在については争う、などと罪状認否の弁護人意見でのべる場合がある。この罪体についてには、正当防衛などの違法阻却事由や心神喪失などの責任阻却事由は含まれない。罪体(crime body)概念は、欧米の刑法概念では古くからあり、この概念がドイツ刑法で構成要件概念へと発展することになるが、現在の構成要件概念は、罪体と必ずしも同一概念ではない。


3 さて、主観的要件の存在を立証するには、一番の直接証拠は、被疑者・被告人の自白である。だからこそ、絶対主義化のヨーロッパの刑事手続きでは、自白は、「証拠の女王」とよばれ、自白がなければ、犯罪事実の存在を認めることはできないし(法定証拠主義)、自白獲得のための拷問が認められた。これが、えん罪、政治犯の恣意的処罰等に刑罰が濫用されたことは刑事訴訟法の歴史講義でよく指摘されることである。
  近代から現代における刑事訴訟法は、かかる不都合を防止するため、自白に対する各種の規制と自白に頼らない弾力的な事実認定の方法、自由心証主義等を採用する。


4 では、被疑者・被告人の自白がない場合に、故意などの主観的要件の存在の立証をどうやっておこなうのか。
 実務上おこなわれる方法は、状況証拠(間接証拠)による認定という方法である。たとえば、被告人が、ナイフをもちいて、被害者を刺し、死亡させた事案について、ナイフが身体の中枢部に刺されたか、深さ、回数、刺すまでの状況、ナイフを事前に準備したか、動機等の事情を考慮して、「殺意」の有無を判断する方法である。ナイフが刺された位置が腹部、心臓部など身体の中枢部に近い、ナイフがささった深度も深い、刺した回数も多い、被告人が日頃から被害者を恨んでいる、犯行の事前にナイフを準備している等の事情(状況証拠、間接証拠)は、被告人に殺意があったものと推認させるという判断を行う。つまりア 殺意があるという事実(直接事実)を イ 推測(推認)させる間接事実を証明する状況証拠(間接証拠)を積み重ねることにより、殺意という主観的要件を認定するのである。これらの状況証拠は客観的状況ないし客観的証拠が多いので、実質上、証明対象が客観的事実(間接事実)となる。もっとも、被告人の動機は、本来主観的要素であるが、これも否認している場合は、それを立証するためのさらなる状況証拠が必要となり、再間接事実としての客観証拠ないし第三者証言等が必要となる。
 そうなると、主観的要件が、直接証拠(自白)がない場合は、客観的事実・客観的証拠による認定という手法(「状況証拠による事実認定」論)によることになり、いわば「主観の客観化」ともいうべき現象がおきていることになる。
 このことを犯罪成立要件の性質論に遡及させ、主観的要素、主観的要件そのものを客観化していこうとする見解が、戦後の新刑事訴訟法制定期を皮切りに、主観的違法要素ないし主観的構成要件を制限的ないし否定する客観主義重視の学説(主観的超過要素に関してだが中山研一、内藤謙など)から主張された。
 しかし、「罪を犯す意思」とか「行使の目的」など法文の文言上、主観的要件と解されることからすると文理上客観的要素への還元は無理があるとの指摘ができる。さらに主観的要件を推認させる状況証拠に対し、逆に推認を否定させる客観証拠がある場合(民事訴訟法における間接反証)、主観的要素を客観的要素に還元してしまっては、かえって被告人の防御にとって不利となろう。
 たとえば、「ナイフで急所をさした」という殺意を推認させる事情がある一方、被告人は「目が悪く近接した状況で無我夢中でさした」という事情は、偶発性を推認させ、殺意がなかったのではないかという推認が働く。これが、「ナイフで急所をさした」という客観的要素があれば、(客観的)殺意があると定式化すると上記判断はできなくなる。
 また、「未遂犯の故意」、「行使の目的」といった超過的主観的要素(客観的事実に対応した認識だけでなく客観的事実を超えた範囲での認識等の主観的要素)について結果発生の客観的可能性とか、行使の客観的可能性といった客観的要素に還元することも、結果発生の客観的可能性があるといって、「殺意」があったと定式化することあるいは行使の可能性があるといって、「行使の目的」があったと定式化することは、やはり結果的に被告人の防御範囲をせばめることになり、従前の「状況証拠による事実認定」論に比較し妥当とは思われない。

5 とはいえ、いわゆる「未必の故意」における状況証拠による事実認定については、純粋に主観的要素の立証というより、限りになく故意に近い客観的な「過失行為」の認定ではないかという疑念がある。この「未必の故意」と状況証拠による事実認定論との関係については、実務的かつ実体刑法上の理論的本質論的問題があり、詳細は別の機会に譲りたい。
 ここでは、主観的要素と理解されてきた「過失」(注意義務違反)が、実務上、「過失」を基礎づける客観的な事実、予見可能性、回避可能性という事実的要素というより評価的要素といえる要件が問題とされ、純粋な内面の問題として着目されていないという点を指摘しておく。
 これは、いわゆる新過失論(「過失」を客観的注意義務違反、結果回避義務違反にウェイトを置く見解)の影響によるものも大きいが、過失が故意とは異なり、犯罪事実を認識(認容)していないことから、犯罪事実の不認識(不認容)という消極的事実が主観面としての前提となっていること、積極的要素の立証としては、かかる消極的事実ではなく外部の事実や、第三者からみて結果回避義務を尽くしたといえるかという関係的評価概念を積極的要素として着目せざるをえないことから生じたものといえる。
 つまり、故意や目的とは異なる意味で「主観の客観化」が生じている。もちろん、主観的な不注意という過失を推認する状況証拠として把握することも可能かもしれないが、不注意というのは評価概念であって、事実的には不認識ないし不認容という心理状態でしかない。すなわち、不注意・注意義務違反という評価要素は、主観的要素、主観的要件とはいえないのではないか。すくなくとも事実的な故意(犯罪事実の認識)と対比される意味としての事実的な「過失」なる概念は想定できないというべきである。そうであるがゆえに「過失」は規範的要素、評価的要素と理解され、実際の証明対象となる事実(評価根拠事実)と区別するのが民事訴訟法上における要件事実論の立場である。
 まとめると過失の消極的要素は主観的要件ないし主観的要素といえるが、積極的要素は、厳密な意味での主観的要件ではない。訴因の特定からも過失を積極的に基礎づける客観的事実(速度超過、信号無視、回避行動の遅れ等)が立証対象であり、防御の範囲でもあるということである。