匿名言論と実名言論 | 刑事弁護人の憂鬱

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匿名言論と実名言論


 18世紀の啓蒙主義者ベッカリーアは、当時の拷問や刑罰に批判する「犯罪と刑罰」を匿名で発表した。政治犯として弾圧される危険があったからである。選挙でも秘密投票がある。誰に投票したのか匿名にすることによって、政治的圧力をふせぎ、自由投票を確保するためである。このように絶対主義的な時代から、近代の自由主義の時代の過程として、匿名言論というのは、完全な表現の自由がない時代における身を守る手段としての意味があった。

 さて、時は流れ、21世紀の今日、マスメディアは飛躍的に発展し、20世紀末からインターネットの普及による情報発信手段、範囲の拡大化は、誰もがネットを通じて言論を発表できる時代である。また、インターネットは、匿名での発言が容易だ。自分の社会的地位や周囲に遠慮せず、自由に発言できる。また、最近のプライバシー情報保護の要請から、個人と特定できる情報規制は当然との流れもある。ところが、言論というのは、様々であり、政治主張有り、社会風刺有り、悪口、陰口等侮辱や名誉毀損もある。名誉毀損等違法とされる言論が匿名で行うことは、陰湿であり、本来的に許されるものではないが、ある特定の主張(適法なもの)を匿名で行う意義というのはあるのであろうか。なるほど、18世紀のベッカリーアのように政治的弾圧や身の危険を感じる状況ならばそれもあると思う(企業の不正の内部告発とか)。しかし、研究者、学者とか、政治家とか、一定の立場にいてこそ意味のある主張や言論もある。 影にかくれた主張ではなく、正々堂々とした主張や言論のほうが、言論における責任の自覚からも、本当の意味での「思想の自由市場」の形成からも意味があるように思う。

 ネット検索すると、研究者、学者のブログなのに匿名ブログが多かったりする。彼らはベッカリーアのようなおそれを抱いているのであろうか。 もし、そうなら今の日本社会って自由な言論ができない時代なんでしょうかね。