すごくすごくおもしろかったです
村上龍は大昔に代表作をかじっただけだし、ここでも「トパーズ」「69」しかかいていなくて
彼の本質にふれていないままだったなぁとおもいました
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最近、Hという知り合いの態度に疑問がわいていた
彼はその場しのぎで嘘をついては自分を取り繕うとしてるんだろうな、とおもえる
とある関係で、その彼とひとつの作業を行ったけれど、
随所に彼の不誠実があらわれた
とはいっても悪気とか悪意がないものなので、怒ったり窘めたりできるわけでもなく。
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わたしは無差別の他者に対する議論とか話し合いという言葉が苦手だ。
価値観というか思考世界そのものの異なる相手を論破するという目的のための行為自体、不毛だと思う。
議論というのは、基本的な大前提として相手に一定の尊敬の念が必要だと思う。
言えば伝わる、もしくは言われたら理解できる、というレベルを両者求められる。
もちろんこの理解しあうというのは、同意されるとは同義語ではない。
むしろ話し合いなんていうものは往々にして反論されるものなのだ。
でも、反論されても、そこに理解の上での反論と、まったく見当違いの反論がある。
しかし、それが全くズレた思考世界の人に、なにをいっても意味がないと捉える。
私はいつも、言うべき人にしか本音とか悩みをいわないようにしている。
はじめから違うとおもう人もいるし、何度か接触しておもう人もいる。
例え性格は悪くても、キレ者で冷静な判断、そしてなにより知識の深いと思う人には
進路を相談したり、納得できないことを唱えたりするけれど、
どうせこの人には言ってもわからない、と思えばしない。
逆にいえば、一見批判的なことを言い放った相手でも、言ったからにはその「一定レベルの尊敬」のある相手だからだ。頭のいいひと、言えば例え同意されなくても、言った経緯は汲めて、わかってくれるひとと思えるからだ。
否定や反論は、誰しもいい気持ちにはならない。
人間ならば、傷ついたりむかついたりするのが自然なのだ。
だからといって、そういった反論をひっくるめて安直に否定する者を“悪いひと”“キライ”と結論付けるのはどうなのか。
Hにこの思いの丈を述べれば、ほぼ確実にそういう受け取り方をするのであろう。
Hだけじゃなくて、今の日本は全体的にそういう異論を唱える者、もっといえば異質なことをする者が現れたら潰せみたいな空気感が漂っている気がする。
個性個性と謳いつつ、それはただの布きれファッションや髪型にあらわしてご満悦している
現に真の個性的な人間は、往々にして否定され、極端にいえば排除されているじゃないか
学校、社会でも。
もちろん、なにをしてもいい、なにも受け入れろだなんて暴論をいっている訳ではない。
わたしは法学が好きだし、社会のルールは守るべきだとおもうし、そういう規制は尊い、絶対に必要だ。
しかしそれは最低限の社会的ルールなだけだ。
民族意識、肩書き、お世辞、曖昧なニュアンス、横ならびの美学もたしかにある、しかし、現代社会人として、それだけで生きていきたいだなんて、おかしなはなしだとおもう。
勿論、こうかいてみても、皆が自由に個性的になればいいとおもっているわけではない。
違和感を感じても結局弱い私は、自我を通そうとは思わない。
日常のばかばかしいことからは逃げられないのだ。それをただぶつくさ嘆いていても仕方がない。
そうである以上、世の中を見極めて、そつなくこなすのが得策である。女だしね。
どんな思想でいるのも自由なわけで、相手の変化ではなく、自分がする(正しい意味での)識別が重要なのだ。
認識力、判断力を持ち、相手を風貌やオプションではなく、中身の見極めをしていかなくちゃいけない。
そして、選ぶだけじゃなく、相手にも常に選ばれてると自覚しなくてはいけない。
このような発言自体、自分の行動が伴っていなければ、恥ずかしいことだと気付き
最近は自分に対する甘さを認識し、そこを改善しようとしているわたしもいたりする。
家柄とか容姿とか不変のものはしかたないけれど、例えば学歴主義批判を、学歴がない者がするのとある者がするとでは大違いだし、以前微妙に派遣切りされた者が甘い云々ということをかいたけど、あれだってまさに自分が企業で生き抜いてこそ、重みのある言葉であるのだ。
これは性格のはなしでも置き換えることが出来、不誠実なHが許せないなら、
許せない前に自分が誰よりも誠実でなくてはいけない、そういうこと。
というのも自分も行動だけでみれば、Hに似た部分、例えば、小さなことでも、必要ない授業は出ないとか、メールを返さないとか、適当にすまして逃げる、そういうことをわたしはわりにしてたけど、もしかして誰かにわたしがHに対する感情に似たものをもたれてるとおもうとぞっとするので、今回改めて、きちんとすることはしようと思った。
やる気ないままやるとこは、やめたけど、それでもあえて他者にふっかけるような議論はしないようにしている。
以前まで私は、なにか不満があれば本人にいうのが、誠実なことだと信じ込んでいた。
だから誰に対しても、かげで言うくらいなら本人にいえ、そうおもっていた。
だからこそキツい言葉であっても、私と顔を向きあい、なにか諭してくれるひとはすきだし、感謝もできていた。
けれど、誰に対してもじゃだめなんだな。おもうところがあっても
言うべきではないこと、言わないほうがいい相手っているんだとおもうようになってきた。
そうやって、ひとは社会に溶け込んでいくのだろう。
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話が飛躍しすぎた。
兎に角、Hにもわかって欲しいと思ってなにかいった所で
「あいつは文句いう」ととられるだけなのはわかっているから
本人にはなにも言わないようにしてる。
彼のすべてを批判的にみないようにしたいと思う。
自分が完璧なわけじゃないのに気にくわないとひとを判断し、
善悪の二元でみれば、それこそ最低の人間だ。
彼には彼のいいところがたくさんあって、そのいうのは尊重し、尊敬する。
今まではわたしだって意見という名目で文句ばかりいい、実際に動くのはHだけだった・・
それはHからすれば鬱陶しいとおもうだろう
やるならいう、やらないならいわない、いや、いう資格はないのだ
彼を通して、自分自身の甘さをじんわりと感じた
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ほんの感想に戻る。
偶然か必然か、そんなことがあった時にこのほんを読んでいたので
すごく爽快だった。
その場をいかに上手く誤魔化すかではなく、危機感を持ち、常に長期を見据えて動くすごさ。
言動のひとつひとつが、この世界では生きるか死ぬかの選択になってしまうため、皆が緊張感を持ち生きる
質素で浪費しない地下日本の、そんな世界は地味なはずなのに、凛とした美しさが伝わる
生ぬるい天国のようか世界から、最悪の戦地に突然まきこまれたはずの主人公はいう
「向こうは最悪でした」
村上龍は、グロテスクな描写とか、暴力的だとか痛い小説といわれているが、
わたしはこのほんに限っては、そんなものちっともかんじなかった
そういう生々しい描写の裏に潜んだ、現代日本の病、その批判と警告
そしてもちろん、ストーリーとしても完璧で、ひきこまれ、驚かされ、とても美しくまとめ上げている
赤い蟻とか、氷砂糖を食べた時、舞台の感動、女の描写もとても印象的で効果を発揮している
この世界では、主人公はおしっこをもらすほどの緊張や、恐怖や、そしてなにより感動を、
五感を鋭く感じる
生を感じる
そしてそれは、けっしてファンタジーではない
あの時日本が降伏しなければ・・もしかして、普通に起こっていたことかもしれない、
つまり、まったくの別の世界ではない。
そう思う読み手に、ぞっとする緊張感を与える
村上龍はすごいですね
ずっと毛嫌いしていたけど(トパーズのせいで笑)
これからどんどんよもうとおもいます
さいきん人に言われた
「もっと言葉の重みを知って」
今更、全身で痛感をする
まるで小田桐のように、全身で感じる
人が言葉を選ぶこともあれば
言葉が人を選ぶこともある
まだまだ不完全なわたしは、今日も言の葉散る
ほんのうみで平泳ぎ