ある時、バスを運転していた運転手は、ブレーキの調子が悪いことに気付きます。
山道の下りを走っていたため、運転手はとにかく麓の平坦な道路まで辿り着こうと心がけます。
そうすればバスは次第に速度を落として停車することができるからです。
そんな中、運転手はある少年が道路の真ん中にいることに気付きます。
少年を避ければバスの乗客の命を落とすことになり、バスの乗客を守るためにそのまま走り続ければ、少年が轢かれることになります。
咄嗟の決断を迫られたこの運転手は、バスの乗客を守るため、少年を轢いてしまいます。
バスが無事に停車した後、バスの中にいた人々は、
「どうしてあの少年を轢いたんだ!」
と、運転手を責め始めます。
運転手は、こう答えました。
「あの少年は、私の息子です。」
運転手は、バスに乗っていた大勢の人の命を救うために、自分の愛する息子を犠牲にしたのです。
これは、つい先日、教会で聞いたお話です。
実話ではありませんが、天の神、そしてイエス・キリストが私たち人類のためにしてくれてことをよく描写したお話として、シェアされました。
全てを創造した神は、神に対して罪を犯し続け、このままではその罪のために地獄に行くしかない人類をどうにか救いたいと願いました。
私たち罪人が天国に行くためには、罪を犯したことのない『誰か』がその血を流し、死を持って償う以外に方法はありません。
「血を流すことなしに、罪の赦しはない」(へブル人への手紙 9:22)
聖書にもそう書かれています。
罪を犯さない人間など一人もおらず、そんな罪人が死を持って罪を償おうとしても、到底罪を清めることなどできません。
だから、イエス・キリストが血を流さなければならなかったのです。
「御子(イエス)は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。」(ヨハネの手紙一 3:5)
バスの運転手が乗客を救うために、実の愛する息子の命を犠牲にする他になかったように、天の父も、全人類を救うためには、愛する息子であるイエス・キリストを犠牲にするしかなかったのです。
神はそれほどまでに、私たち人類を愛してくれているのです。
「実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。」(ヨハネの福音書 3:16)
神は、神を嫌う人のことも愛しています。
しかし、イエス・キリストの十字架での死によって差し出されている、『永遠の命』という贈り物を拒む人は、その時点で自ら地獄行きを選ぶことになります。
神を拒む人を、神は無理強いすることはありません。
無理強いは本当の愛、真の信仰ではないからです。
どうか一人でも多くの人が、イエス・キリストからの愛の贈り物を受け取り、永遠の命を得られますように。
アーメン
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