10日に都内でライブを終えて、そのまま夜走りで宮城へ。
途中吹雪いてチェーン規制だったり、色々ありましたが、仮眠を取ったりしつつ無事朝に実家へと到着しました(^^)

それから少しだけ寝てから、神奈川の伯母の到着を待って、家族と伯母とで南三陸の母の実家へと向かいました。
その途中、骨組みだけ残った防災庁舎や、さんさん商店街がある近くに、亡くなった従姉妹が働いていた養護老人施設がありました。
今は建物も無く、何かの新しいプレハブと、献花台があります。
その場所は海抜15mあり、今見ても「こんなところまで波が来たのか…」と思うくらいです。
入居者さんや職員の多くは、そのすぐ裏手のさらに高台にある学校に逃げて助かったりしたそうですが、従姉妹は一人でも多く助けようとして戻った所を波に飲まれました。
献花台に花を添えて、手を合わせました。
南三陸の防災庁舎は結局まだどうするか決まっていないようで、まだ残っています。

そして今回行って気づいたのが、その近辺では新しく建物を造るためか、4~5mの盛り土をしている所がとても増えていました。
ゆくゆくは道路も高さを上げるんでしょうが、現状では道路の周りが盛り土に囲まれているような形です。
そうなってくると、防災庁舎は周りより低くなってしまうんですよね。
維持費や、みなさんの気持ちも合わせて考えると、本当に難しい問題だなぁと思います。
歌津方面はやはり志津川ほど作業が進んでいる印象は受けませんでした。
予算や人手に限りがある以上、人口が多い部分からやるのは当たり前なのですが、分かっていても複雑な気分ですね。
そして歌津にある母の実家へ。
到着してから線香をあげ、その後話をしていると、14時46分になったので、皆で黙祷しました。
その後も近況や他愛も無い話をしたり、すぐ下の港に海を見に行ったりして、帰りました。




宮城県は3月11日を「鎮魂の日」と制定しました。
時間が経てば、忘れ去ることは無くても、どうしても色々なことが薄れていくのは当然のこと。
今のところ毎年そうですが、この日に家族や親戚と話す時間を作って、あの日、あの頃何をしていたか、どんな気持ちだったか、そういった事を話すと、必然的に記憶は強く呼び戻され、残ります。
家族であの時のことを話したりしましたが、ついこの間のことの様な気がします。
あの3月に小学校を卒業した甥っ子も、今度の4月から高校生です。
中学校に入ってすぐ、震災の影響で給食が簡易給食で、いつも「給食たりねー」と言っていたのが、本当につい最近のような気がするけど、もう3年。
黙祷もその一つだと思いますが、多くの人が時間を作り、思いを馳せ、それをどんな形でも、日々の暮らしに反映して行くことができればと思います。
自分の震災関連の記事のリンクです。
2011年3月11日
2011年3月12日
2011年3月13日、14日
2011年3月15日、16日
2011年3月17日、18日
2011年3月19日~21日
震災で行方不明だった親戚
2013年3月11日
従兄弟の話
お盆in宮城
最近自分を知ってくださった方や、まだ読んだことが無い方、時間がある時に少しずつでも読んでもらえたら嬉しいです。
何か大したことが書いてあるわけじゃないですが、こういうことがあったんだなぁとか、こういう人達が沢山いたんだろうなぁとか、何でも感じてもらえればと思いますし、それが何かの行動(別に被災地の為だけでなく、自分や周りの人に対してでも)に繋がってくれたら嬉しいです。
それでは。


