■同調していたのは不機嫌が怖かったから | マウントされる女やめる大学

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どんなに自己肯定感が低くても
熱量集中心理カウンセラー☆マリチャンヌ学長が
あなたの人生を文明開化!
人生の照明を当ててみせます!

 

熱量高めで

あなたを真反対の世界へお連れする

 

お手伝い心理カウンセラー・

マリチャンヌです。

 

 

 

わたしは現在

心のボタンの掛け違いをゆるめてほぐし

 

 

心理カウンセリングを通して

あなたの人生の照明を

当て直すお手伝いという

お仕事をさせていただいています。

 

 

 

 

以前、お客様とこのようなお話をしたことがありました。

 

 

 相談者)

相手に言いたいことがあるのに

本音をいうのが怖くて言えないんです。

 

 

マリチャンヌ)

もしかしたら・・言うことで何か怖いものがあるのですか?

 

 

相談者)

他人の機嫌が悪くなったらどうしよう!が

あってとても言えません!

 

そうなるくらいなら、当たりさわりなく

周りに合わせた方がいい、に

なってしまいます。

 

 

でも、そんな自分もイヤなんです・・・

 

 

 と、お話ししてくださいました。

 

 

 

 

 

わたしも、他人が不機嫌な声、態度を

表に出されると

体が固まることがありました。

 

 

不登校以降、

 

わたしはそこにいてはいけない

存在してはいけない

 

集団の中で、みんなと同じように

機能しない自分は生きる価値がない。

 

と、いう意識が強くなり

 

教室での居場所のなさが、より拍車をかけ

 

近くにいる他人が不機嫌を表に出すと

全部自分のせいだと捉えるようになりました。

 

 

 

とにかくわたしといる時間は

どうかご機嫌か、凪でいてほしい・・

 

 他人の顔色を見張りまくりです。

 

 

まあ、なんてことはない。

 

見ている方向が、ただ

とんちんかんなだっただけなんですけどね!

 

 

 

 

そこで今日は

 

「同調していたのは不機嫌が怖かったから」

について書いてみたいと思います。

 

 

よろしければ最後までお付き合いください。

 

 

 

わたしの両親は、わたしが物心つく頃には

ケンカばかりしている人たちでした。

 

 

父は「お酒で」

母は「自分の正しさが、わたしの意見と一致しないとき」

 

それぞれ、機嫌が不機嫌になることが多く

 

わたしは、その豹変の瞬間が

何よりも恐ろしく好きではありませんでした。

 

 

自分のせいではない、と解っているときでも

何か絶望的な感覚がありました。

 

 

わたしは、外では

特に、誰かと自分の意見が違うとき

 

 

自分の考えを伝える

わたしは、こう思うよ、と言い切ることが

怖くて出来ませんでした。

 

 

 

昔から、感情の振り幅が激しい人に

一方的に誤解される傾向があり

 

 

多くの場合、細かく説明しても

聞く耳をもってもらえないことが多く、

 

意思を伝えない限り、その先も

誤解前提で

会話が積み重なっていくことが苦痛でした。

 

 

このループから

抜けだしたい!という気持ちがあり

 

心理講座の受講をきっかけに

あえて、練習という名の本番だ、と

伝えていくことをやってみることにしました。

 

 

しかし、実際の場面になると伝えたあと恐れが出ます。

 

 

それ以上関係が悪化しないよう

おかしなフォローを挟み

自己嫌悪になることはなんどもありました。

 

 

それは、嫌われて孤立するのが怖いというよりは

 

「自分の考えを貫くことでキレられて、

長引くのがめんどくさい・・」という

 

この場に居たくない気持ちから来た

恐怖感からなのでした。

 

 

 

不機嫌=安全が壊れる。

 

子供のときの思い込みです。

 

 「自分が自分の思うことを言い切る」

=「わがまま」と解釈される

おうちルールで育ってきたので

人間関係でもそれが出ていました。

 

 

深い部分ではいつも

わたしは安心と安全を求めていました。

 

 

こどもは

自活できないですしね、逃げ道がない。

 

大人に頼らなければ

衣食住という命を左右するものが

危うくなりますし。

 

しょうがないといえば、しょうがないのです。

 

 

別の選択肢があるとは、夢にも思わなかったので

 

自分で自分の気を狂わせてでも

長年、その考えを

意地でも手離せませんでした。

 

 

しあわせというものは

 

誰かに与えてもらいながら生きていくものなのだと

 

身近な人たちをお手本にして

信じ込んでいたこととも関係しているようでした。

 

 

だからわたしの外側にある世界は

怖いものだらけだったのかもしれませんね。

 

 

「豹変」という解釈そのものが誤解であり

 

わたしの「本当の願望」

「本当に恐れていたもの」に気づいた時

 

 

傷つける目的もなければ、

ゴリ押ししたいわけでもない。

 

どう思われてもいいじゃないか・・

 

自分の思いを大切に扱ってやりたい

 

怖かったけどいい顔を捨てていけるように

なりました。

 

 

自分の中に安心が育っていないと

恐れる気持ちも

膨れ上がっていくのかもしれませんね。

 

 

 

わたしは、わたしの時間の中で

時間は長くかかりましたが

 

 

責める相手など本当は

どこにもいないことを知ったとき

 

やっと自分を取り戻せた気がしました。

 

 

 

みんな、大丈夫。

 

みんな、大丈夫なのです。

 

 

すべて持って生まれてきている。

 

 

もし生きづらいのなら

自分の手で揺り起こしてあげよう。

 

 

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