「こうあるべきだ、強め」から
「そんな自分をゆるしてお金持ち*」
優雅な星へ導く
お手伝い心理カウンセラー・
マリチャンヌです。
わたしは現在、心理カウンセリングを通して
心のボタンの掛け違いをゆるめて
未来を思い出すお手伝いという
素敵なお仕事を
させていただいています。
わたしは、小学一年生の頃
こんなことを考えていました。
悩みがある人って・・・・・
・人間的に深みがあるように見える
・厚みがありそう
・過去があるという苦悩はカッコいい
・器がでかそう
・複雑なことはいいことだ
それくらいわたしは、
「昨日何があろうと、今日は今日」と、
一晩寝たら昨日の嫌なことは
すべてリセットされている
単純回路で生きている子供でした。
だから、昨日の苦悩を
今日も引きずっている同級生のことを
「からっとしてないなぁ~」と
不思議に思っていました。
しかし・・いつしか
そんな自分のことを、次第に
カッコ悪いなぁ、子供っぽいなぁと
恥ずかしく思うようになってきました。
昨日を引きずっている人は
表情に深みがあって
大人っぽくて素敵❗
単細胞でよかったのに。
うんと楽なのにね。
下ろせば下ろすほど肩も軽い。
あれは一体なんだったんでしょうか・・?
そこで今日は
「悩みが欲しかったのは、みんなとおんなじになりたかったから」
のお話しを書きます。
よろしければ最後までお付き合いください。
「肩が凝った、腰がいたい
ああ疲れた・・」
小学生のわたしと
リアル40代のわたしの疲れを比べたら、
もちろん、1割にも満たない
おつかれ度合いですが
シガレットチョコをくゆらせたい
子供ヒゲ社長なお年頃・・
小1のわたしには
『悩むことは大人っぽい!』
『そういうことを言ってみたい!』が
ありました。
必死でキョロキョロ
探してみるものの
グッとくるものは見つかりません。
現実には、6歳にしては
なかなかのハードな環境で暮らしていましたが
欲しかったのは
それとは違うもののよう。
悩みさえも、
「みんなと一緒じゃないわたし」
に、足元がおぼつかない思いを
感じたのだと思います。
みんなに追い付けない、
足らないわたしなのだから
最大公約数が持っているものと同じものを
持たなくちゃ・・
今思えば、しなくていいことを
やりだしていったハシリの時期でも
ありました。
能天気で短絡的、
深みはないかもしれませんが
それはそれで、あえて放っておくことで
伸ばしてもいける面だったかも
しれないのになぁ。
40年も経ってから気づいたということが、
あの頃のわたしに
なんだかとても申し訳ない気持ちになりました。
恐らく、本気の悩みの渦中にいるなら
大人っぽく見せようなんて余裕は
ないことでしょう。
あの頃、おうちでは、
自分自身という存在を大事にしていこう!・・という視点は、
しつけの中には正直見られず
常に不足のほうに
重きはおかれていたので
いつもありのままの自分には
ダメ出しをされていました。
「みんなと一緒、そこから降り落ちないこと」
それしかない!と思って
ほとんどの物事に当てはめて
暮らしていたので
もしかしたら、
はげますつもりの誰かの助言さえも
責められていると受け取って
心が小さくなってしまっていたことも
あったかもしれませんね。
その後わたしは、捏造してまで
自分は生きる価値がない、を使って
「どうせわたしなんてごっこ」に
興じていくのですが
皮肉なことに散々重りをつけて
間引いた果てに残ったものは
朝起きたら、今日は今日を生きるのみ!な
「単純なわたし」が
そこに在るだけでした。
勇気のいる場面もありますが
それでも、知ったかぶりをせず
わからないことはわかりません、って
言えること
できないことはできません、と断れること、
わからないから、教えてね、って
言えるようになった自分が
きゅんとくるほど大好きです。
単細胞なまま
ふとやってみたい思いを大事に、
そのまま、トライしてみることで
気づいたり、拾い上げたり
なにかを感じたりする。
等身大を大事にしていく生き方かな?
それが、わたしが心から手応えを感じる
しあわせ、かな?と感じています。
いつかのわたしに
もう一度向きあってみることで
な〜んだそんなことだったのかぁ〜の話も
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